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プレゼントの靴


 先日の僕の誕生日にコンバースのスニーカーをプレゼントしてもらった。靴に防水スプレーをしながら、小学生の頃、靴が新品なのが恥ずかしいと思っていたことを思い出した。靴がきれいなのが恥ずかしくて1、2ヶ月は履いている靴であるかのように見せるために、学校のグラウンドで汚れを付けていた。そんなことで自分が目立つのが嫌な子どもだった。友達と一緒が良かった。
 しかし僕はそのうち、自分が他人と同質であることを避けるようになり、そしてそもそも自分が誰とも一緒ではないこと、「ただ一人」であることに次第に気がついた。そうした当たり前のある種の絶望を足場にして僕は生きてきた。自分が一人であるということを自覚したときに初めて、人とどうやったら繋がることができるのだろうかと考え始めた。考えた結果その方法は「メッセージ」が「相手に伝わるかどうかは分からないが、相手に伝わってほしいと願うこと」なのではないかと僕は思った。しかしその何らかの「メッセージ」が相手に直接届くことはない。必ず何かを経由する。経由する間に、「メッセージ」は変質し思ったように届くことはない。いや、逆に言えば相手に届いたものが僕が届けてしまった「メッセージ」だ。「メッセージ」は相手がいて、僕がいて、はじめてこの世に存在できる。そういった形でなら人と繋がることができるのではないだろうか。と、僕は今そう思っている。
 「メッセージ」は相手に届いたときに「メッセージ」になる。そしてその後にようやく意味を持ち始める。だから僕の都合の良いようには届かない。僕がもらったスニーカーもまた「メッセージ」だ。この「メッセージ」にはどういう思いが込められていて、僕はどういう「意味」を見つけることができるのだろうか。それは僕の人間的な器量や資質に関わっているし、「当たり前の絶望」の上に立って生きていく中での少しの希望だ。

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