見出し画像

流し見の感度,薄目の効用

市原さん

ちょっとご無沙汰しておりました。
いちはらさんは,だいぶお忙しい春だったご様子。
その後お元気にお過ごしでしょうか。

気づけばゴールデンウィークも過ぎました。
花粉も黄砂も気にせず窓を開けていられる季節になったなあ…と,爽やかな風を感じていた午後,小さな子が「まいあひー! まいあほー!」と歌う声が外から。

脳がバグる瞬間です。

***


相手の全身を「みるともなくみる」という感覚でね、ぼんやり全体をつかむような感じで細胞を見るんですね。すると、違和のほうからぼくの心に飛び込んで来る、みたいなことがある。

まなざさない目線Shin Ichihara/Dr. Yandel


1冊の本を編集するとき,原稿と取っ組み合うように読んでいいのは最初だけ。何度も何度も同じ熱量で読み込んでしまうと,編集者のなかに原稿が「馴染んで」しまって,初めて読む読者の立場からどんどん遠ざかっていく。だから,フィニッシュにむかうときは,なるべく「薄目」で全体を「眺める」ように読む。そうすると,凝視していたときには気づけなかった違和感がパッと目に飛び込んでくる。

…これは,わたしの師匠である(と,わたしが勝手に思っている)ひとりの編集者が教えてくれたことです。いちはらさんのおてがみを拝読して,ふとこの師匠が語ったシーンを思い出しました。

あのとき,新人であるわたしの狭い視野には師匠しか映っていなかったけれど,その様子を,周りの人たちはどんな表情で眺めていたでしょうか。そして,今のわたしだったら,どんな顔でその場面を眺めるだろうか。そう考えるうち,なぜだか気恥ずかしさを覚えて,そこで思考をとめました。

***

今の仕事をはじめて15年ほどが経ちますが,その当時から,わたしにとって「原稿」といえば,初見は(のちのち紙に出力するとしても)ディスプレイに表示されたデジタルデータであることが常です。

依頼原稿がメールで到着しますと,脱稿いただけたことへの喜びと安堵を覚えつつ,開いたとたん全文が文字化けしないか,そもそもちゃんと開くか(社のPCはmacなので,最近こそ滅多にありませんが,数年前はそこかしこで事故が起こっていました),ちょっとの緊張感をもって,添付ファイルをクリックします。

…よし,ぶじひらいた。文字化けも,まぁないよね,うん。
ないんだけ,ど……?

ざっとスクロールするうち,モワッとした「違和感」のような。もっと言ってしまうと,「ちょっとイヤな予感」のようなざわつきが,この時点で胸に起こることがあります。

ひとまずデータを所定のフォルダに保存し,著者の先生に原稿拝受のお礼とともに,今後の進行予定などをご返信。

後日,改めてその「予感」をおぼえた原稿を詳細に拝見していくわけですが。

たとえば翻訳書の原稿ですと,「です/ます調」と「だ/である調」が混在して(=翻訳ソフトに突っ込んだ形跡がそこかしこに残って)いるですとか。ボコボコ訳抜けがあったりですとか。あるいは「嘗ては其の定義を以て此の症状を…」と,ちょっと漢字が多めだったり。

これは…なかなかにたいへんな原稿…みたいなことが,ちょいちょいあります。

逆に,データを開いた瞬間に「あ,きれい」と感じる原稿をいただく機会もあり。これは第一印象どおりのすばらしい内容であることがほとんどです。

このとき感じる「きれい」は…いったいどこからやってくるのでしょう。

ロジックも日本語もふくめ美しい文章の,漢字・ひらがな・カタカナ・欧文のバランス…極端に言ってしまうと,画面上の白と黒の比率?   黄金比ならぬ白黒比のようなものが,実はそこに潜んでいるのじゃないかしら。

という妄想は同業者に共有できぬまま,きょうも薄目で原稿を眺めています。

(2023.5.12 西野→市原)