見出し画像

アルモドバルの物語とか、ジャームッシュの自由とか(映画備忘)

8月から9月にかけての数週間、集中して映画を見た。
その中で、過去に見た映画を自分が覚えていないことがよく分かった。作品の内容ばかりか、見たという事実さえ忘却の彼方で、映画の終盤になってようやく「これ、昔見たな」と思ったりする。
そこで、最近見た作品を忘れないようにメモしておくことにする。

※見た順番に記載。カッコ内は監督名と公開年。

◯映画
・たんぽぽ(伊丹十三 1985)
ラーメンもいいけれど、朝食のシーンが印象的だった。おひつで湯気をたてる炊き立てのごはん。つややかな焼き海苔にごはんをのせて、醤油をひとたらし。いいなぁ。

・ユリイカ(青山真治 2000)

・コーヒー・アンド・シガレッツ(ジム・ジャームッシュ 2003)
京都の街なかを歩いていて、偶然に、この映画に関するものを3度も目にした。喫茶店の壁のポスターや、雑貨店のウィンドウに置かれたスケッチなど、それぞれ別の場所で。これは何かある、と思って、改めて見た。
何も考えずに画面を眺めているだけで、手足の先まで喜びが満ちてくる映画。
11の短いストーリーからなり、そのいずれにもコーヒーとタバコがある。各ストーリーの間の共通点(コーヒーとタバコはもちろん、テーブルの市松模様や、会話の内容の一部など)が、全体をひとつの映画として機能させるリズムを生み出していると思う。それから、場所については、個人の家というシチュエーションがなく、ほとんどが喫茶店。自分もその店の客の1人で、隣のテーブルに座った人の様子を窺い見ているかのような気分になる。

・セクシリア(ペドロ・アルモドバル・1982)
80年頃のマドリードが舞台。エネルギッシュで、思いもよらぬことが起こりそうな街。主人公セクシリアがいつの間にか別人と入れ替わるという展開も、勢いで受け入れてしまう。

・バッファロー'66(ヴィンセント・ギャロ 1998)
主人公の不器用な苛立ちは、人生の一時期というより、90年代後期という時代として懐かしいもののように思う。

・抱擁のかけら(ペドロ・アルモドバル 2009)

・告発(マーク・ロッコ 1995)

・ミステリー・トレイン(ジム・ジャームッシュ 1989)

・神経衰弱ぎりぎりの女たち(ペドロ・アルモドバル 1988)
高校生の頃から、好きな映画を尋ねられたら「ジャームッシュとアルモドバルの作品」と答えている。ずっと変わらない。路線変更するほどたくさんの作品を見ていないという悲しい事実かもしれないけれど。
最近、河合隼雄『とりかへばや、男と女』を読んだら、物語と近代小説の比較について触れられていた。曰く、近代小説の流儀に従えば、物語(昔話や近世以前の文学)においては非現実のことが起こりすぎる。現実に起こりうることでも、都合の良い偶然が多い。けれども、物語は個人の心象を描いているのではなく、「たましい」について語ることを目的としている。物語の世界においては、近代小説の物差しは「大人だまし」にすぎない。
「たましい」というのは、なにか普遍的なもの、物事の核心にあるもの、無意識の深層にただようイメージのようなものかなと私は理解した。
アルモドバルの映画も、物語に近いかもしれない。メロドラマの仕掛けを利用した熱っぽいストーリーは、一歩間違うと陳腐になりかねない。けれど、その奥には、美しいものを捉えようとする試みがある。その美しいものは、「たましい」という言葉で河合隼雄が示したものに通じる気がする。

・デッド・ドント・ダイ(ジム・ジャームッシュ 2019)

・オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ(ジム・ジャームッシュ 2013)

・卒業(マイク・ニコルズ 1967)
結婚式での花嫁略奪のシーンは、もっとハッピーなものを勝手にイメージしていた。翌日、母に会ったのでそのことを話したら、「そうね。主人公たち2人が笑ってないんだよね」と言っていた。そうそう。笑ってない。ニューシネマらしいラストだなぁ。

・パーマネント・バケーション(ジム・ジャームッシュ 1980)
私がジャームッシュ作品を好きな理由はいろいろあるけれど、ひとつだけ挙げるなら、女性の描かれ方だと思う。ほかの多くの映画においては、女らしい女が観客の無意識の期待に応えるが、そういうことがない。あるいは、女らしさ、男らしさが映画に利用されていない。
大人になるにつれ、日常的には性別の問題を取り沙汰しなくなったが、やはり、ジェンダーから自由になる夢は私の中にあるらしい。ジャームッシュ作品を見返して改めて思う。

・ジュリエッタ(ペドロ・アルモドバル 2016)

・ブギー・ナイツ(ポール・トーマス・アンダーソン 1997)
家出してポルノスターになった主人公が拠り所にしたのは、新たな家族としての監督とその妻(両親の代わりとなる存在)。過ちを犯しても、悔悛すれば、父なる監督は許して受け入れてくれる。
私にとって主人公より気になるのは、脇役のローラーガールだった。投げやりな雰囲気を纏っていた彼女だが、ある時、昔自分を嘲笑した男とのセックスを拒否し、さらに男をローラースケートで踏みつける。

・アニー・ホール(ウディ・アレン 1977)
恋愛にまつわる映画で、終盤の走馬灯シーンはずるいと思う。泣いてしまうに決まってるじゃないか。単純な仕掛けなのに……。

スリーピー・ホロウ(ティム・バートン 1999)
前に見たことがあると確信したのは、最後のほうで、亡霊と悪い女が木の根元の穴に飛び込むシーン。15年前、一緒に見ていた夫に、「あの穴は女性器に似ている」と言った記憶がある。今見ても、その見立ては間違っていないと思う。

・デッドマン(ジム・ジャームッシュ 1995)
20年くらい前に見た時には、正直言って、よくわからなかった。でも、今や、ジャームッシュ監督の映画の中でストレンジャー・ザン・パラダイスやダウン・バイ・ローと同じくらい好き。
柳田國男の『山の人生』を思い出した。罪を犯して山に逃れた人たちについての記述があった。

・私、ときどきレッサーパンダ(ドミー・シー 2022)
真正面から少女の成長について取り組んでいるのに、それほど嫌味でない。ギャグのおかげかな。あとは、感動的な場面がわりと短い。

・アモーレス・ペロス(アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ 2000)
『21g』に通じる意図を感じる。脚本家も同じであるし。
ドラマチックな運命に翻弄される人々が、メキシコシティの街角ですれ違う。同じ時に同じ場所に居合わせる。これはマジックリアリズムの一種かもしれない。
音楽がとてもよくて、久しぶりに、エンドロールを凝視した。どの挿入曲もよいけれど、ラストで流れるGustavo Santaolalla のAtacamaは耳を洗っていくような音。

・ドラッグストア・カウボーイ(ガス・ヴァン・サント 1989)

・どですかでん(黒澤明 1970)

・お引越し(相米慎二 1993)
性格の不一致による離婚が、93年当時はあたらしかったのかなぁと思った。
冒頭、主人公が両親と夕飯をとっている部屋が妙で印象的。派手な紫の襖で囲まれた室内に、同じく紫の三角形のテーブル。和なのか洋なのか。そして、食事のメニューはご飯に焼き魚の和食で、卓上には醤油などの調味料が出ており、その生活感がまた紫の調度類と不釣り合い。両親の不協和音を表しているような…。

・ナイト・オン・ザ・プラネット(ジム・ジャームッシュ 1991)
ローマのロベルト・ベニーニが最高。

・パリ、テキサス(ヴィム・ベンダース 1984)
いい人が多すぎやしないか?と思うのは、本筋から外れた感想だろうか。冒頭の砂漠の場面がとても印象的で、なにか力強いものを連想したので、その後のスムーズな展開に拍子抜けした。失踪者が帰ってきたり、行方不明の妻を探しに出かけたり、思い切ったことはしているものの、障害物がほとんどない。誰も主人公を止めないし、怒らない。心配するだけ。
もしかすると、すべては主人公の幻想かもしれない。妻とのマジックミラー越しの会話のように、見えない相手に語りかけているだけで。
昔見たヴェンダース作品では、『都会のアリス』が好きだった。電車に乗った主人公が、手の中で小銭をもてあそぶ様子がとてもよいと思った。

・サッドヴァケイション(青山真治 2007)


・アメリカン・ビューティー(サム・メンデス 1999)
興味深い映画ではあった。が、この家庭は結局、崩壊していないと思う。主人公は娘の同級生への恋愛感情をギリギリのところで思いとどまるし、妻は積年の恨みを主人公にぶつけられず終いだし、娘は家出すると言いつつ最後まで家の中にいる。
家庭が壊れないにも関わらず、主人公はその家庭の一員で居続けることはできなくなるのだが、それは思わぬところで恨みの種を蒔いたからだ。
人生に因果などなく、部外者の手によって一瞬で終止符を打たれるかもしれないよ、という映画として捉えるならおもしろい。
問題を抱えた家族ばかりの映画だが、そんな中で、近所のゲイカップルだけは円満な様子。毎朝、仲良く並んでランニングをしている。ゲイの人物やカップルはそういう役回りを荷いがちだと思う。社会のしがらみでがんじがらめなマジョリティを横目に、自由でハッピーな人たち、みたいな役。でも、現実には、マイノリティの人々は(その全員が、というわけではないが)婚姻など皆と同じ権利を求めている。多数派の人たちが見たがっている少数派の姿と、実際との間には乖離があると思う。

・すずめの戸締り(新海誠 2022)
大きなことをしようとしすぎでは。捉えきれていない部分を、ありがちなイメージで補っている印象。

・アンダーグラウンド(エミール・クストリッツァ 1995)
最初から最後までずっとエネルギッシュ。そのエネルギーに魅了されたようで、3時間近くあるのに一瞬だった。ラストはまったく呆気に取られた。主要登場人物が勢揃いする河岸が、陸地を離れてドナウ川を漂いだす。「この物語に終わりはない」というメッセージとともに、あまりに印象的な幕切れだった。
1941年から92年までのベオグラード。共産党員のマルコとクロの関係を軸にストーリーは展開する。盟友でありライバルでもある2人は、1人の人物の2つの側面だろう。
マルコは上手く立ち回り、第二次世界大戦後、ユーゴ共産党の重要人物となる。一方で、彼はクロを騙して、第二次世界大戦は終わっていないと信じこませ、何十年も自宅の地下に幽閉し続ける。自らの別の一面を押し殺し続けたわけだ。
嘘をつく、と言えば、ドイツが舞台の『グッバイ、レーニン!』もそうだった。そちらのほうは、病気の母にショックを与えないように、東ドイツが存続していると偽る。嘘を補強するために缶詰に古いラベルを貼ったり、ラジオ放送を流したり、そういう工作をするのが同じだなぁと思い出した。ファシスト打倒に燃えていたジョージ・オーウェルがスペイン内戦で失望したように、共産主義社会に偽装は付きものなのかもしれない。平等の理想もまやかしで、ユーゴ時代のマルコは特権を欲しいままにしている。
やがて地上に戻ったクロは、内戦下で武器商人となっていたマルコを殺害する。虚しく悲しい場面が続くが、クロはラストの河岸で懐かしい人々に再会する。暗い部分もひっくるめてクストリッツァの祖国の歴史であり、映画の中に繰り返される水のイメージ(井戸、川、下水道、魚など)のように、それは形が定まらないまま、ずっと続いていく。

・さかなのこ(沖田修一 2022)
冒頭に「男か女かはどっちでもいい」という文字が挿入される。でも、そうだろうか。女性ののんが男性を演じているのは、どっちでもいいからではないはず。女性が演じたことによって、主人公(さかなクンがモデル)の個性的で異質な存在感を、不思議な説得力で表現できたのだと思う。それが男の子でも女の子でもない「さかなのこ」にはベストだったのだと思う。
のんが女性であることは映画を見る人はみんな知っているし、髪を長くしていたり意図的に女性的特徴を残しているし、それに子役も女の子だ。「女の子の見た目だけど、この人物は男の子」という、認識がシャッフルされるような感覚を生むには、やはりどっちでもよくはない。

・エレファント(ガス・ヴァン・サント 2003)
意図せずして二度見になった映画が何本もあったが、これはあえてもう一度見たくて見た。
20年ぶりなのに、自分が各場面や登場人物一人一人を鮮明に覚えていて驚いた。これの次はこうなって……と大体覚えていた。当時、ものすごく集中して見たらしい。
それに、ちょっとした特徴なんかも記憶していた。たとえば、イーライの腕輪。フォークをそのまま手首に巻きつけたような腕輪をしている。ちらっと映るだけなのだが、かっこいい!と思って自分もフォークを曲げようとした記憶がある。上手くいかなかったけれど。
この映画のイーライやジョンだけでなく、ガス・ヴァン・サントの映画の男の子たちは皆かっこよくて、みずみずしい。髪型、服装もよい。シルエットまで美しい。2000年ごろのストリートファッションが一番かっこよかったのではないかという気がしてくる。
各人物の動きを追うように映画は進行する。映像の中の光や音は時に遠のき、時に迫ってくる。それはその人物の視覚や聴覚に対応していて、いつのまにか彼/彼女の感覚に引き寄せられる。自分も学校の廊下を歩いているような気がする。

○ドラマ 
・季節のない街(宮藤官九郎 2023)


タイトル画像は、近所のお寺に咲いている彼岸花。白いものもあると初めて知った。赤いものは、美しい中にどこか禍々しい感じがあるけれど、白はまた違った印象。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?