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聖書を読んでから観ると 「チェンジリング」(クリント・イーストウッド/2008/映画)

1. 暴力はこの世から

大学で、「カリブ海地域文化論」という授業をとっていた。毎回、カリブ海地域に関連した映画を観たり小説を読んだりした後、教授が自由に話をし、学生が質問する。授業が終わると夜7時過ぎで、いつも、教授と皆で(受講生は5、6人しかいなかった)大学のそばの台湾料理屋に行っていた。
その頃、イーストウッドの映画2作品が日本で公開され、話題になっていた。ある日、大根餅を食べながら、教授は「グラン・トリノ」を批判して言った。
「暴力はこの世からなくならないんだよ」
映画の内容は理想主義的だ、というような主旨だった。以来、イーストウッド作品を見るとその言葉を思い出す。

2. Leap of Faith

同じく大学で、「キリスト教文化論」という授業も受講した。東方正教の司祭である先生が客員教員として担当していた。
授業での発表のため、私は宗教や信仰心に関する本をいくつか読んだ。そのうちの1冊に”Leap of faith(信仰による跳躍)”という言葉があった。「理屈では説明できない事柄を信じること」というような意味だった。
私は、「川の対岸へ飛び移るように、信じることで依って立つ地平が変わる。見える世界が変わる」のだと理解した。信仰心について不思議に思っていたことに対する答えのような気がした。

3.聖書

たまたま手に取る機会があり、今、旧約・新約聖書を読んでいる。楽園追放やノアの方舟、イエズスの誕生など、一般的な知識としてはなんとなく知っていたものの、通して読むと驚きが多い。繰り返し語られることの一つは、「信じる者は、その信仰心によって救われる」ということ。また、罪びとが改心するエピソードも多い。

4.チェンジリング

「グラン・トリノ」と同年に公開された「チェンジリング」。昨日、この作品を見たら、上記の3つが私の中でつながった。

「チェンジリング」は、キリスト教の教えに裏打ちされたストーリーだ。あまりに明白なので、私が知らなかっただけで、イーストウッドとキリスト教の関連は共通認識なのかもしれない。
信じるものは、希望を得る。救われる。だから、映画のラストでは「行方不明の子供は結局、見つからなかった」とは言わない。事実に基づくストーリーの締めくくりによくあるような、後日談はない。つまり、事実としては「見つからなかった」が、作品の意図としては「きっとどこかにいる」のだ。なぜなら、母親のクリスティン(アンジェリーナ・ジョリー)がそう信じているから。
また、以前、はじめて見た時には、殺人犯の男の位置付けがよくわからず混乱したが、今回は腑に落ちた。彼は、「息子を殺したの?」と問うクリスティンに対し口を閉し、なにも答えない。「地獄に堕ちたくない」、「自分は告解を済ませてきれいな魂になった」と言いつつ、本当に正直になって罪の赦しを求めることをしない。彼の絞首刑シーンが真正面から残酷に映し出されるのは、断罪の意味だろう。
対照的に、無理矢理に殺人を手伝わされた少年は、罪を告白して救いを求める。すると、刑事が「もう終わった。大丈夫だ」と手を差し伸べる。少年は自分の罪を認め、自ら申し出たから救われる。

「グラン・トリノ」の主人公の自己犠牲も、みんなのために一人が死ぬ、というイエズスの生涯や、使徒たちの殉教に重なる。

「暴力はなくならない」という教授の言葉にも意味はある。それは事実と言っていいと思う。なぜ、なくならないのだろうと思う。
けれど、それではイーストウッドの映画はただのきれい事かというと、それも違う。
それは、依って立つ地平の違いなのだと思う。
信じているか、どうか。


・食の場面
子供が行方不明になったあと、冷蔵庫には食べられないままのサンドイッチが残っていた。

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