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愛より親切、憧れより冷徹さを

 恋愛感情ほどやっかいなものはない、とつくづくおもうようになった。
 こどものころ、家も学校もいやで、でもどうにもできなかった。合法的にそれらから出られたのが18歳の時で、それよりまえはずっと本の世界に逃避していた。本のおかげでやっと「外」に出られたけど18歳の私は18歳という仮面をかぶった12歳くらいの子供だった。「外」はそれまでの世界とはまたべつのつらさがあったがもう戻ることは出来なかった。どっちつかずのまま宙ぶらりんな世界にいたが、恋愛というフィルターをかけることで日々を記憶していた。恋愛フィルターとはよくできたもので、そのフィルターがかかったものだけ、妙に記憶にのこっている。便利なことこのうえない気もするがフィルターのせいでじつはちゃんとモノがみえていなかったとおもう。フィルター越しにわたしはみたいものを勝手に見ていたのかもしれない。向こうもフィルターをかけてみてくれたらいいのだが、幸か不幸かそういうことはなく、おかげですこしは成長できたようなきがする。

 先日松浦理英子『ヒカリ文集』という書籍のオンライン読書会に参加した。
 「心を使わない人」に心惹かれたというのが執筆のきっかけらしいが、「心を使わない人」と聞くと、最初は、無神経な人のことかなと思ったがそういう意味ではまったくなくて、相手のためにある意味反射神経的にいろいろしてあげることができるが、それは心を使っているからではなく使わないからこそ、とっさにそういうことが親切心としてできてしまう、という感じとわたしは解釈した。また恋愛感情はつきつめると排他的だったり盲目的だったり、嫉妬心になったり、ほかのひとを切り捨てる感情になり、むしろ親切という行動からかけはなれて醜くなっていく、確かそういうところあるよな、恋愛至上主義ではなく、その「心を使わない人」を手がかりに、脱恋愛をはかっていく、ということ。
 読書会でどなたかがカート・ヴォネガットにこういう言葉があるとおしえてくださいました。

愛は負けても、親切は勝つ。
『ジェイルバード』翻訳:浅倉久志(ひさし) より

 この記事には「愛が無理でも親切ができれば」みたいに書いてありますが、たぶんちがうとおもう。愛より親切、なんだと思います。愛といってもアガペーとエロスの愛が(これも読書会で出た言葉)あるから、キリスト教的愛があるに越したことはないのかもしれませんが、宗教に根ざした愛よりわたしは親切のほうがいいとおもいました。恋愛で感情の機微をまなんだきはしますが(感情の機微を学ぶというのも読書会で出たキーワードでした)、やはりわたしはこれからはエゴイスティックな恋愛をえらぶより親切でありたいとおもうのでした。
 いろいろ書いていますが、わたしもいつか憧れのわかしょ文庫さんが書いていた「ランバダ」シリーズ(3しか持ってない)のような文章が書きたいです。そのためにはいつまでもフィルターをかけて過去をふりかえるわけにはいかないと思うのですが、なかなかその恋愛フィルターがとれなくて、こいつはもう! という感じです。でも人に憧れるばかりじゃなくて、自分にしか書けないものを、冷徹な目を持って書くしかない。と覚悟を決めよう。憧れも一種の感情フィルターだもんね……。ほかのひとになりたいなあとおもいながら生きてきたからなあ。恋愛じゃなくてほかのひとに自分を投影してたんだよな。

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