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Yesterday death

死は一般に身近ではありません。人が亡くなることは、そうあってはいけません。しかし、病気や事故で来るべき日は必ずすべての人に訪れます。そういう意味では、身近ではないけれど、誰もが経験し得ることです。

病院という場所はだいぶ特殊です。病気に罹った人が入院し、治療をする場でありますが、死を考える視点から言うと、死を待つ場所でもあると思うのです。こういう書き方をすると誤解されかねませんが、医療者として患者の死を望んでいるわけでは決してありません。ただ、死がそう 遠くない患者に対して、医療者として死を意識し、ある意味積極的に考えることは不可欠です。

患者の死を考えるって?そもそも、死がどんなものか、私は最近まであまり実感に乏しかったと思います。身内が亡くなったとなればそれは哀しいでしょうが、幸いなことにあまりそういったことはありません。人生経験が少ないから分からないといえばそれまでですが、そんな言い訳もしていられないことが。

昨日、自分が担当していた患者が亡くなりました。

死因は癌による病性の悪化です。つい2週間ほど前に体調の悪化で入院してきたばかりでした。本当に残念で、哀しい。自分としては最後まで何もできなかったという無力感で押しつぶされそうになりました。

患者は自分の母親ほどの歳で、普段から気さくに話してくれていましたが、自分のことや今後のことについてはなかなか心を開いてくれない印象がありました。自分のコミュニケーションが及ばずだったとは、当然あると思います。別の人にはもしかしたら話しやすい人もいたのかも。しかし、今思えば、最後まで弱音をはかず、気丈に振る舞って人生を終えた彼女は本当に強い人でした。

死を考えるということは、医療者にとっては患者が死についてどう思っているか、人生でやり残していることはないか、余生をどうすごしたいか、もしもの時は蘇生を望むのかなど、一言では言いきれないほど考えることがあります。そのどれもがシビアでセンシティブな内容なため、なかなか普段の会話では聞き出しづらく、なにかしてあげたい気持ちと何もできないもどかしさがいつもあります。

もちろん彼女についても最後について何度かたずねたことがあります。彼女は、「最後はらくにして」「家族には自分がいってある」と、割とさっぱりとした答えしか返ってきません。それが本音だとも思いましたが、弱さを見せまいとしているのではないかとも考えました。しかし、一貫してその姿勢を貫きました。

少し話は変わりますが、DNR(do not resuscitable)という言葉があります。医療者の中で用いられる用語で、患者が急変した場合に心肺蘇生を望まないという患者・家族の意思表示のことです。予後について医師から厳しいIC(インフォームド・コンセント;医師からの説明)がなされた際に急変について患者や家族に考えていただき、その結果DNRとなることが多いです。

彼女はICにてDNRの意志表示をしていました。DNRとなったからといって、治療が終わるわけではありません。治療し、痛みをとることなど緩和的なことを行いつつ、その時が来たと場合は蘇生しないということです。彼女もその流れに則った形となりました。

医者としてはDNRの意思表示は重要ですが、看護師としては不十分です。先に述べた「死について」を患者とともに考えなければならないからです。しかし、私はできませんでした。

これは備忘録として書いています。今後私自身が同じように癌の患者をもち、死について考えることが何度もあるでしょう。その際、患者自身が元気で治療に前向きであるほど、死についての話は難しい話題となります。しかし、癌は穏やかに進行し、亡くなるときは一瞬です。元気であっても、いつその時が起きるかは分からない。だからこそ、癌の患者には死を考えることが必要なのです。その人が、またその家族が後悔のないように。

克己、自分。




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