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序:オーストリア学派経済学者列伝

オーストリア学派経済学者列伝は、オーストリア学派の経済学者について個別あるいは纏めて評伝を立てて論じ、後の研究の便宜に供するためのものである。また、菲才の身でこのような大それたことをするわけであるから、常に更新されるわけではないし、また、更新された文章も逐次訂正されるかもしれない。長い目で暖かく見守っていただきたい。

わたしがこのような文章を書いた目的は、日本の経済史の入門書などに書かれているオーストリア学派の記述があまりにもお粗末だからである。また、シュンペーターを無邪気にオーストリア学派だと言ってみたり、ハイエクをミーゼスの弟子と言ってみたりする。経済学者は初学者が正しく学説史を理解できるように努力するべきであるのに、その努力を怠ってしまっているように思える。

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オーストリア学派は、ミーゼスの「回顧録」、または「オーストリア学派の歴史的背景」に書いてあるように、カール・メンガーに始まる。しかし、メンガーは、その対手であったドイツ歴史学派(新歴史学派)のグスタフ・フォン・シュモラーとは異なり、学派を構成することができなかった(メンガー一人しかいなかったのだから、仕方がない)。

それだけ、メンガーの提唱した主観的価値論はオーストリアにおいては無視されていたのである。だが、ドイツにおいて、フリードリヒ・フォン・ヘルマンが主観的価値論を唱えていたことから考えると、メンガーの登場は、突然そうなったのではなく、時代の必然だったと言えるかもしれない。

カール・メンガーの弟子にあたる人物は、ユリウス・グスタフ・ランデスベルガー・フォン・アントブルク、ヴィルヘルム・ローゼンベルクがいる。特にヴィルヘルム・ローゼンベルクはミーゼスと共にインフレ主義と戦うことになる。

オイゲン・フォン・ベーム=バヴェルクと、フリードリヒ・フォン・ヴィーザーは、メンガーから直接、教えを受けたわけではなく、メンガーの著書を読んだことにより、オーストリア学派の第二世代を構成することになった。

第二期オーストリア学派とドイツ歴史学派を調停する立場に立つ、いわゆる中間派の経済学者として挙げられるのは、オイゲン・フィリポヴィチ・フライヘア・フォン・フィリップスブルクである。フィリポヴィチの弟子としては、ヨーゼフ・アロイス・シュンペーターとエミール・レーデラーがいる。中間派に分類される経済学者ついては、簡潔に扱うことにする(元々、中間派はオーストリア学派なのか、そうではないのか、明らかになっていない人を分類するために設けている)。

一般的に第二期オーストリア学派と第三期オーストリア学派との間には、時間的な空隙がある。しかし、多くの経済思想家は、この時期にオーストリア学派は重要な発展を遂げていたことを見落としている。このため、わたしは第二期と第三期の間に、間期オーストリア学派を設ける。

この間期オーストリア学派として分類されるべきは、主に二つの系統がある。一つは、チェコ系であり、この系統にはフランティシェク・チュヘル(フランツ・キュヘル)とカレル・エングリシュがいる。チュヘルに関しては欲求と序数効用に関する理論が、最晩年のメンガーと、ミーゼスに影響を与えている。もう一つは、アメリカ系であり、この系統にはフランク・アルバート・フェッター、ベンジャミン・マカレスター・アンダーソンがいる。アメリカという新大陸において、旧大陸的思想を導入したフェッターが為した貢献は大きいと言えるが、アメリカにおいて忘れられている。また、アンダーソンは、ミーゼスの「貨幣及び流通手段の理論」に反応し、「価値の理論」を著した。

第三期オーストリア学派は、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、リヒャルト・フォン・シュトリグルはベーム=バヴェルクの弟子の代表的な人物であり、ハンス・マイヤー、フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエク、ゴットフリート・フォン・ハーバラーはヴィーザーの弟子の代表的な人物である。パウル・ローゼンシュタイン=ロダン、ゲートルート・ロヴァシーはマイヤーの弟子の代表的な人物である。ハイエクの弟子については、ここでは扱わない。

さて、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスのウィーン時代の弟子は、へレーネ・リーザー=ベルガー、フリッツ・マハループ、マーサ・シュテフィン・ブラウン、イルゼ・ミンツ=シュラー、オスカー・モルゲンシュテルンがいる。

情報が不足していて分類できないがミーゼスの弟子の可能性が高い経済学者には、ルートヴィヒ・ベッテルハイム=ガビヨン、エリー・オッフェンハイマー=スピロがいる。この二人の経歴は非常に興味深く、ベッテルハイム=ガビヨンは俳優から転じて官僚、経済学者になった変わった経歴の持ち主であり、オッフェンハイマー=スピロは女性でありながら経済学者と実業家の二足の草鞋を履いていた。

ハイエクとハーバラーは、ヴィーザーとミーゼスの双方に影響を受けており、ローゼンシュタイン=ロダンとロヴァシーは、マイヤーとミーゼスの双方に影響を受けている。ミーゼスは、「回顧録」の中で正確な意味における学派を設けなかったと書いているが、これはそれを証明している。

ミーゼスの弟子で特筆するべきは、へレーネ・リーザー=ベルガーとフリッツ・マハループである。へレーネ・リーザーは博士号取得のための論文を、フリッツ・マハループはハビリタチオン取得のための論文を、ミーゼスの指導下で書き上げた。ちなみに、後に触れるが、へレーネ・リーザーの博士号取得は、ウィーン大学法政治学部では女性初となる。マハループについては、ウィーン大学教授であったデーゲンフェルト=ショーンブルク伯爵に人種差別的な理由でハビリタチオン取得を阻まれたため、ミーゼスがマハループを助けて、ハビリタチオンを取得させたという経緯がある。(この経緯がよくわかっていないと、後にミーゼスがマハループの変節に激昂して2年間交信を絶ってしまったことの理由がよくわからなくなってしまう)

ミーゼスが主催したウィーン商工会議所における私的ゼミナールをどのように扱うかについてはセンシティブな問題であると言わざるを得ない。何故なら、ミーゼスはこのゼミナールにおいて、一人の経済学者として「討論」したのであって、学生を「指導」した訳ではないからである。また、弟子という言葉の意味を、「影響」を受けたというところまでの広い括りにしてしまうと、極端な話、ライオネル・ロビンズやヴィルヘルム・レプケ、果てはオスカル・ランゲまで含まれてしまうことになる。こういう混淆を避けるためには、できる限り、ミーゼスの弟子とされている経済学者の研究を明らかにし、分類して系統立てる必要がある。

第四期オーストリア学派は、ミーゼスが1940年にアメリカに亡命した後に、アメリカのニューヨークにおいて形成された。第四期オーストリア学派を、ミーゼス学派、または新オーストリア学派と呼ぶ。

第四期オーストリア学派で代表的な経済学者は、マレー・ニュートン・ロスバードとイスラエル・カーズナーである。この二大巨頭が中心となってミーゼスを支えることになる。また、ミーゼスはニューヨークにおいても私的ゼミナールを開設したが、この時はゼミナールの学生を「指導」したのである。ウィーン・ゼミナールが同志の結びつきだったとすれば、ニューヨーク・ゼミナールは師弟の結びつきだったと言える。

第四期オーストリア学派を考える上で、ウィリアム・フォルカー・ファンドの存在は欠かすことができない。この基金の支援がなければ、第四期オーストリア学派は成立しなかったであろう。ウィリアム・フォルカー・ファンドは、ミズーリ州カンザスシティの実業家で富豪であったウィリアム・フォルカーが自らの財産を慈善事業に用いるために1932年に作った基金である。ミーゼスはこの基金の力によって、ニューヨーク大学の教授となることができた。ウィリアム・フォルカー・フェローとして、ニューヨーク大学においてミーゼスの門下となった村田稔雄教授にわたしが直接伺った話では、フェロー(奨学生)は大学の助教授並みの奨学金を受けて学問に励んでいたという。

第五期オーストリア学派は、ポストミーゼス学派と呼んでもよい。代表的な経済学者は、ハンス=ヘルマン・ホッペ、イェルク・グイド・ヒュルスマン、へスース・ウェルタ・デ=ソトなどである。

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