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言葉は控えめに、弱者の戦術で。。。

私は、仕事でも家庭生活でも、言葉は控えめに使ってきました。
理由は、言葉というものは、話し手の話している内容について、聞き手が同じように理解しているわけではないからです。
私は、自分が主催する会議の席では、異見がでることを好みます。
私が考えていることとの差異や齟齬がわかるようになるからです。
少々時間がかかっても、全員に発言してもらい、私自身の発言をチェックしてもらいながら部門などの目標やアクションプログラムを作り、言い出しっぺに、その実行役になってもらっていました。

会社でも家庭でも、私は、自分が一方的に話すのが苦手です。
もっとも、妻に異見すると、私の過去のいきさつから何倍にもなってかえってきますから、かなり控えめに話すようにしていますが。
いや、ときに話すことをやめることもありますが。。。
息子たちがいれば、中立的な立場で異見をさばいてくれます。
息子たちのおかげで、わが家は、いろいろな意見の調整ができ、双方が納得できる結論になることが多いでしょうか。

妻や息子たちでさへ、私の話を理解するのがむずかしこともありますから、まして社員が、私の言葉を理解できるようになるまでには、ある程度時間が必要になる、と考えてきました。

私のような転職が多い人間は、転職すれば、言葉より自らの行動を優先してきました。
もくもくと仕事をしていれば、部下たちは、時間が経てば、その仕事は自分たちがやることだとわかり、私がやっていた仕事を進んで引き受けてくれるようになります。

非生産的ですが、日本企業における長期雇用では、この点を抜きにして仕事をうまくまわすことはむずかしいでしょう。
逆に、部下たちが私の行動を通して、私を少し理解してくれただけで、私の言葉を理解しようとしてくれるようになり、仕事はがぜんうまくいくようになります。

私は、言葉を使うことにおいて、丁寧さを大切にして生きてきました。
もちろん、今の仕事においてもですが。。。
妻とのLINEのコメントなどでも、やさしく、丁寧な言葉遣いをしています。
常に、相手を思いやる姿勢をもって会話を楽しみます。
そして、なによりも大切な行動で自らの姿勢を示してきました。
やらされているわけではありません。
私にとって言葉とともに、妻が望むであろうという行動をすることが好きだからでしょうか。

また、私が尊敬できる人たちは、言葉と行動のバランスがよい人が多く、その方たちの家庭生活は、とても幸せに溢れているようでした。
そのせいか、私は、若いころから、言葉と行動のバランスを、自らで体得できるように努力してきました。

会社でも家庭でも、常に弱者の戦術でしょうか。

断定的な言い方をあまりしません。
異見が大好きです。
自由な発言を許容しています。
その場で結論を急ぎません。
自分が間違ったときは、可能な限りはやく誤ります。
人や愛犬をほめるのが大好きです。
妻の料理もよく褒めます。

たったこれだけで、仕事でも家庭生活でも、ゆかいに、楽しく生きてこれました。

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