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人生に潜む合成の誤謬トラップ

ミクロ的に見れば正しいことであったとしても、それらが合成されたマクロの世界では、必ずしも意図しない結果が生じることを経済学の用語で合成の誤謬ごびゅうといいます。

経済学の用語と聞くと、いかにもアカデミックで反射的に身構えてしまう人も少なくないかと思います。だいたい誤謬って日常生活でほぼ使いませんしね。「それって誤謬じゃね?ウケるわ~」ぐらいのノリで使われていれば、もっと印象も変わったかもしれないんですけど。

でも、これって実はいろんなところで応用が利く概念なんですよ。われわれの人生にも深くかかわってきます。これを理解していないばかりに、人生の貴重な時間を浪費してしまっている例は、枚挙にいとまがありません。マジで大事なんです合成の誤謬。

資本における合成の誤謬

たとえば誰もが関心のあるであろうお金を考えてみましょう。われわれが生きる資本主義社会というのは、なんだかんだいってお金の多寡がモノをいう社会です。

最近は資本主義の行き詰まりを感じ取った各方面の人たちによって、その方向性に違いはあるものの、共通して「資本主義をアップデートせよ」なんてことが言われたりしています。

が、あくまで現段階においては、こういった言説は一部の先見性のある人たちの間で共有されているのみであって、まだまだ一般的とは到底言えません。圧倒的大多数の人は、できることならもっともっとお金を稼ぎたいと望んでいることでしょう。

別にそれは自然なことだと思いますし、咎めるつもりはまったくないんですが、とはいえ何不自由ないお金があればそれで人生あがりかというと、そうじゃないですよね。そういう立場にいる人でも、精神を病んでしまっている人なんて、掃いて捨てるほどいますから。

昔、貧乏だった人がハングリー精神で起業して、一発当てた後に無気力に陥るパターンとかで、こういう人をよく見かけます。お金が不足しているからお金を稼いだのに、なぜか幸福感がついてこない。

なぜこういうことが起こるのかというと、まさに合成の誤謬トラップにひっかかるからです。

そもそもお金というのは、数ある資本のうちの1つにすぎません。お金という金融資本のみを増やすことにかまけて、社会関係資本すなわち人とのつながりがおろそかになってしまうと、その孤独感は着実に精神を蝕んでいくことでしょう。

つまり金融資本という部分だけを最適化させても、資本全体が最適化されずに意図せぬ事態が起こりうるのです。もっと言えば、その資本全体すらも人生を構成する部分でしかありません。

人生が難しいのは、こういった合成の誤謬トラップがいたるところに仕掛けられている点にあります。ちょっと何かの部分に入れ込むと、すぅーぐ合成の誤謬トラップが発動しますからね。俺のターン!ドロー!合成の誤謬トラップを召喚!がずっと俺のターンの勢いできますから。

医学における合成の誤謬

他にもそうですね、医学なんかはわかりやすいんじゃないでしょうか。われわれは何かしら病気にかかったり、あるいは怪我をした際、病院にかかって治療を受けますよね。この時、治療のベースになっているのは基本的に西洋医学です。一部例外はありますが、主流となっているのはあくまで西洋医学です。

では、この西洋医学のベースには何があるのかというと、要素還元主義があります。これは17世紀フランスの哲学者であるルネ・デカルトが提唱した考え方で、要するに「複雑なものでもバラバラにして、部分を見ていけばわかりやすいじゃん」という考え方のことです。

人体なんかはまさにそうですよね。いろんな臓器があって、それらが有機的につながっていて、今なお人体についてはわからないことだらけです。あまりにも複雑すぎる。そこで西洋医学は要素還元主義でアプローチするわけです。ある臓器が機能不全に陥りました、ではその臓器を取り替えましょう。ある部分の皮膚に炎症が起きています、ではその皮膚に炎症を抑える薬を塗りましょう、といった具合に。

もちろんそれらはそれらで必要とされる場面はあります。なにも西洋医学なんてインチキだと、一部の過激派ないしは原理主義者のような主張をしたいわけではありません。西洋医学の発展によって多くの命が救われたのは、疑いようのない事実ですから。

けれど、一方で問題もあります。それは端的に言えば「対処療法に留まりがち」だということです。考えてみればこれは当たり前の話です。部分にわけて部分にアプローチしてるわけですから。どうしてもそこにはホリスティック(全体性)な視点が欠けてしまう。

そして、部分だけを最適化しようとするということは……もうおわかりでしょう。ここでも合成の誤謬トラップが発動します。

以前、長年にわたってうつ病を患っていた人が、どれだけ薬を飲み続けても一向に寛解しなかったのに、仏教と出会うことによって寛解に至った事例を目撃したことがあります。このケースなんかは、まさに人体における生化学的反応だけを部分的に最適化しようとする薬物療法の限界を、如実に物語っているように思います。

薬物療法というのは、あくまで一時的に窮地を脱するために用いるものであって、根治を期待するようなものではありません。根治を目指すにはもっとホリスティックな視点で臨まなければならないのです。そもそも人間存在がホリスティックなのですから。

そんな人間が形作る人生もまた、ホリスティックなものです。そしてホリスティックなものに対しては、そのままホリスティックにアプローチしなければなりません。これは部分の最適化をサボっていいという意味ではなく、木を見て森を見ずではダメだということです。

逆に森を見て木を見ずでもダメで、木も見て森も見てその関係性を捉える、これこそがホリスティックなアプローチです。

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