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現代に蘇るソフィスト

名著『反社会学講座』で一世を風靡したパオロ・マッツァリーノさんの以下の記事が話題になっていたので、興味深く拝読しまして。

パオロさん、いいですよね。ユーモアをふんだんに盛り込むことで軽さをだしながらも、内容はちゃんと濃くて読み応えのある内容に仕上がっているという、軽さと重さの一見矛盾した要素を両立させることができる稀有な作家さんだと思います。

有名どころだと『ヤバい経済学』シリーズの著者で知られるスティーヴン・D・レヴィットとスティーヴン・J・ダブナーのダブルスティーヴンコンビなんかもそうですが、こういう軽くて重い筆致にぶっちゃけ筆者は憧れる部分がありまして、自分もまたそういう書き手でありたいな~と、日頃から意識して試行錯誤している次第です。

本当に知的といえるのか

論旨についてもおおむね同意で、特に昨今の単なる詭弁家を論破王などとほめそやす風潮には、同じく問題意識を共有しているところです。

今回の都知事選で一躍名を馳せた石丸さんにしろ、論破王といえばこの人ひろゆきさんにしろ、包み隠さず本音を言わせてもらうならば、筆者は彼らを見てもまったくもって知的であるとは感じません。

詭弁を弄するのがうまいなとは思います。いや、違うな。別にうまいとは思わないけれど、その詭弁に騙される人は多いだろうなと思う、がより正確な表現になるでしょうか。結果として「弁が立つ知的な人」の印象を多くの人に与えるであろうことも、理解はできます。たとえ実態がかけ離れていたとしても、です。

でも、それって本当に知的といえるんですかね。知的ってそういうことなんですか。のらりくらりと質問の答えをはぐらかして、詭弁を弄して相手を論破し悦に浸る、それが知的な人の所作なんでしょうか。それって知的な人なんじゃなくて、単に「詭弁スキルに全振りしただけの幼稚なコミュ障」じゃないですか。少なくとも筆者にはそうとしか見えません。

筆者は現代という時代は、まわりまわって古代ギリシャがリバイバルしていると考えている節があるんですが、その意味でまさに彼らは現代に蘇るソフィストだといえます。

ソフィストとは、古代ギリシャにおける職業教師のことで、ギャラをもらって弁論術を教えていた人たちのことです。ギャラをもらって教えているわけですから、それなりのわかりやすい成果をださなければいけません。それが「議論で勝つ」ということだったんですね。

ソフィストが真理の探究よりもいかに相手を論破するかに力を注いでしまい、詭弁に陥りがちだったのはこういう背景があります。

そして、これは現代ソフィストとて同じです。それが必ずしも金銭的報酬とは限りませんが、石丸さんにしろ、ひろゆきさんにしろ、何かしらのベネフィットを求めてああやって詭弁を弄するわけで、また何もわかっていないメディアもそれをほめそやして、ますます増長させている構造がそこにはあります。表面的な形は変われど、本質的には古代ギリシャにおいてソフィストたちが詭弁に陥っていた構造と大差ありません。

そして、ソクラテス・プラトン・アリストテレスなど、古代ギリシャを代表する大哲学者たちは、こぞってそんなソフィストを痛烈に批判しています。元をたどればソフィストは「知恵ある者」の意味ですが、現在のように「詭弁家」の意味として解釈されるのは、このような大哲学者たちの批判があってこそです。

ソフィストに決定的に欠けているもの

筆者が見るに、今も昔もソフィストに決定的に欠けているものが2つあります。1つは「真理の渇望」、もう1つは「他者との対話」です。

石丸さんにしろ、ひろゆきさんにしろ、すぅーぐ「それってあなたの感想ですよね」ムーヴをかましますよね。これはどういうことかというと、すなわち彼らは相対主義の立場をとっているわけです。あのムーヴがあれだけ反射的にでるということは、骨の髄まで相対主義が染み込んでいること強く示唆しています。

相対主義を誤解している人があまりにも多いので、ここらではっきりさせておきたいんですが、物事を深く考えた経験がない人からすれば、いかにも相対主義は冷静で、客観的で、知的な振る舞いとして映ることでしょう。が、しかし実態はというと、まったく違います。知的に怠惰で、他者との共通の地平を築く努力を放棄し、自ら世界の可能性を閉じようとするのが相対主義です。

そりゃあ彼らもいろんな知識をもっていると思います。し、一般の人に比べたらその知識量は比べものにならないかもしれません。競うつもりはまったくないとはいえ、分野によっては筆者自身もまるで太刀打ちできないことでしょう。

けれど、知的に誠実であるということと、知識量の多寡は別に関係がないのです。「真理の渇望」を携えて、世界に内在する無限の可能性を今より一歩でも深く解き明かそうとする、そうした世界との向き合い方こそが知的誠実さを規定するのです。そして、そのように生きている人を哲学者とそう呼ぶのです。

その意味で、彼らはソフィストであっても哲学者ではありません。「真理の渇望」がまったくといっていいほど見られないからこそ、素人にはそれっぽく聞こえるわりに、知的誠実さがまるで要求されない、安易な逃げ道である相対主義に陥るのですから。

彼らは相対主義に陥っているがゆえに、ろくに他者と対話しようとしません。いつだって念頭にあるのは、自分がいかに正しいか、それをいかに愚かな相手にわからせるか、それだけです。なんたる傲慢さ。相対主義に陥る人は、例外なくこの罠にはまります。表面的には相対化で取り繕いながらも、結局は自己を絶対化するのです。

つまり、彼らが纏っている相対主義とは、形を変えただけの絶対主義であり、これを筆者は「閉じた相対主義」と呼んで「開かれた相対主義」とは区別しています。

では、逆に「開かれた相対主義」とはどんなものか。この立場をとる人というのは、この世のどこかに唯一絶対の真理という山頂があると信じながらも、その山頂にたどりつくための登山ルートは千差万別である、換言すれば相対的であることを深く理解しており、それゆえ「他者との対話」を通して、さらなる高みへと至ろうとすることができます。相対主義と絶対主義の両方がぶつかりあうのではなく、高いレベルで止揚されているのが最大の特徴です。

いい加減、そろそろわれわれはソフィストではなく、哲学者を欲するべきじゃないでしょうか。

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