Justice isn't...

……正義とは抽象的な法理論や法律書の脚注のことではない。正義とは私たちの法が、人々の日常生活にどのような影響をもたらすかということである。
――Barack Obama, The President's Remarks on Justice Souter, on May 1st, 2009

冒頭のパラグラフは、バラク・オバマ大統領がスーター連邦最高裁判事の辞任に際して記者団に行ったスピーチの一部。新たに判事となる人物には、正義が抽象的な法理論や法律書の脚注ではない事を理解していることを求める、それはまた私たちの法が人々の日常生活にどのような影響をもたらすかということでもある、と説いた。

法律学を学んだ者であればオバマ大統領のいわんとしていることを理解することができるし、法に携わることを生業とする者は日頃からよく心得ていることだと思う。

私は法曹ではないが、企業の中で法務に携わっている。仕事の大半を契約書の起案・審査が占めているが、最も基本的かつ重要なことは、取引の実情を確認することである。特に取引先が出してきた契約書の場合は、依頼者から事実を確認せずにレビューすると、実際のリスクが小さいか、ほとんどないのに、自社に有利にしようとしてしまう。そのような条項は仮に提案しても相手方の反発を受けるし、契約交渉が無駄に長引く原因となってしまう。だから、事業部担当者からヒアリングした事実関係を踏まえて修正は過不足なくしなければいけない。

学生時代、教育活動の一環として市民法律相談に携わっていた。市民向けの法律相談なので、内容は相続や金銭トラブル、交通事故、近隣トラブルが多かったが、内容は異なってもやっていることの本質は現在の仕事とさほどかわらない。
一番多い相談内容は相続である。普通に生きている人が弁護士に相談する機会はほとんどない。しかし人間には寿命があるから、親が亡くなることと相続は避けて通ることができない。相談に来た人は、まず自分の主張を展開する。相続の手続きがわからない、きょうだいと揉めている…云々。当時の私に任された最も重要な役割は問診をすることだった。看護師が患者に症状を尋ねるように、事実を一つ一つ確認してゆく(この度はお悔やみ申し上げます。お父様はいつ亡くなられましたか。あなたは娘さんですか。家族構成は。お母様はご存命ですか。先に亡くなられたのですね。遺言状はありましたか。本日お持ちでしたら拝見してもよろしいですか…)一通り話を聞くと控室に下がり、一緒に担当した学生と事実関係を確認し、弁護士資格を持つ教員に報告する。自分たちの出した結論と先生が回答している内容を比べて、どこが足りなかったのかを振り返ると座学で学んだ法律の理屈だけではなく社会常識が法の解釈と適用に影響を与えていることがわかる。しかしそれも正確な事実関係の把握が前提である。無味乾燥な法律の条文が生きて現実の紛争を解決する手段となる条件を4年間身を持って学んだのである。

一週間前、好きなメイドさんが辞めた。理由はわからない。
法律は所詮道具にすぎず、万能ではない。頑張って解釈しても依頼者に不利となる場合もあるし、場合によっては常識から外れた結論になることもある。そして、事実関係を確認しない事柄について法的評価を下すことは本人を含めて関係者の利益を害する可能性が高く、公にすれば法的な責任を問われることもあるだろう。

ゆえに、私は自己の職業倫理に照らして、個人的な感想を持ったとしても事実関係を確認できない事柄について法的な見解を公に述べることができない。
私が沈黙する理由について説明する必要を感じたので書きおくことにした。