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「好き嫌いせず、ご飯食べなさい」問題と、「自分が作るときにメニューを指定されたくない」問題

4月13日に、子育てパパの対話会をひらきました。
ひさしぶりの夜開催。子どものいないテットーひろばに、ぞろぞろ集まってきた面々と、子どもと暮らす日々のことなど、言葉にする時間を持ちした。終わった後には、僕がつくったお鍋とウドンを食しました。
 
みなさんに聞いてもらい、反応をみながら、僕自身が言葉にしたことを、あらためて文章に落とす形で、ご報告します。
 
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「いただきまーす」と、楽しく食べはじめたのは、遠い昔。
まわりは、食事がおわっているのに、一つだけ、まだ半分以上ご飯がのこっているお皿。ご当人(名誉のため特定しません)の、ご飯への関心は失せ、椅子には座っていられなくて、なんなら、寝そべってさえいる。というところで、今日の「好き嫌いせず、ご飯たべなさい」の雷が落ちる。という、カレーと餃子ではない日に繰り返される我が家の日常。
 
 
我が家の食事は妻が用意してくれているのですが、自分で作るときがたまにあって、ちょっとした高揚感があります。ペペロンチーノ、カルボナーラ、トマトソース、バジル、ボンゴレビアンコ、妻は作らない料理をガッツリ食べられるチャンス!ということ。
 
つい先日、妻が夜外出する日の朝、今夜は何にしようかと考えていたら、「餃子にしたらいいんじゃない」という妻のアドバイス。なんで、そんなこと子どもの前で言っちゃうんだろーというモヤで固まる自分。「子どもたちの鉄板メニュー、冷食焼くだけで簡単だよね」という含みはよくよくわかるとして、こっちはそのお腹じゃないんだよね、でも子どもたちのお腹は完全に餃子モードだし、今更、僕が食べたいもの作るのもめんどくさいよ・・・という。
 
察しのいい妻は僕が固まった理由を即座に理解し、すぐに謝ってくれるので、夕食時にはモヤもさっさと霧散して、わだかまりなく大阪王将の冷凍餃子を食す、我ら父子。これもまた、ウチの日常。
 
「好き嫌いせず、ご飯食べなさい」問題ですが、このセリフの前段について僕の気持ちを言語化してみると、「(好きなものだけ食べたいなら、自分で作れ、作ってくれている人が気持ちよく作れるように)好き嫌いせず、ご飯食べなさい」というあたりでしょうか。(栄養のバランスとか考えて)という部分もないことはないですが、僕の場合は、「作ってくれる人に感謝して主導権を尊重しようね」の要素が多そうです。

「自分が作るときにメニューを指定されたくない」なんて言うと、ちょっと、自分でもなんだろな・・・なんですけどね。妻が、僕や子どもが食べるのを想像して日々ご飯作ってくれているのは知っていて、それは嘘偽りなく感謝しているということは何度でも大声で言いたい・・・のだけれども、日常のなかで、さっと脇にかたずけていた気持ちを、話しを聞いてもらいながらと言葉にしたらこんなでした。
 
でも、たぶん、こういう気持ちをちゃんとケアしていないから、子どもにご飯食べさせるために、わざわざ、「好き嫌いせず、ご飯食べなさい」なんて、子どもに雷をおとしていたりするんだろうな、なんてことをおもった夜でした。
 
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子育てパパの対話会は、議論やディスカッションの場ではなく、お互いの経験を聴きあい、それぞれが新しい視点や気づきをえるための対話を大事にしています。
 
こども、仕事、夫婦関係・・・・解決の処方箋はだせませんが、対話を通じてヒントくらいは見つけられるかも。子連れの遊び仲間みつけるためにもどうぞ。
だいたい毎月第三土曜日に東京世田谷区の、のざわテットーひろばで開催しています。
 

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