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クッキーを受け取る気持ち


今、こんなに自由な時間があるにも関わらず、結論も出なければ考え足ることもない。こうだな、これが心地よいな、こうしていこう、と思い、数分後には正反対のことを思う。中学生の恋心を連想する。何が正しい訳でもないし、どれだけ考えても決まることなど無いのだと思う。

ただ、どんな時でも自分の中で確固たる気持ちがあり、それが、自分を大切に思ってくれる人間は大切であるということ。

近日のある日、本当は早起きをしようと思っていたが、結局昼まで寝てしまい、起きてから両親と出かけた。

本当は午前中、家の前の、森に囲われたドデカい公園でマヨネーズ抜きのサンドイッチを食べて本を読もうと思っていた。自分が夜型過ぎるだけなのだけれど、一日が24時間であることが憎いなと思った。

私の両親は仲が良いし仲が悪い。毎日、事実かわからないことや実在するかわからない嘘をテーマに言い合いが繰り広げられている。

最近私も少し似ている戦いをしていた。泥だらけの子供を洗ってやろうと水を浴びせていたら、水死させようとしているのかと罵倒を受けるような戦いだった。

きっとそこに、本人がそう思うのであれば、愛はあるし、また、お互いにそれをそのままの姿として伝えることはできない。気持ちというものに形は無いし、証拠も無い。

こう思ったからこうしたという言葉としての解説があるならばまだ優しくて、それを信じるか、そうでなければ感覚を凝らし、汲み取ることしかできない。

子供を水死させようとしたわけではないと言う証明は、私にはできなかった。

母親は病気を持っていて、コロナウイルスに感染したら人以上に悪いことが起こる。だから私はずっと会いたくても帰省したくなかったし、外出してほしくもなかった。でも今日、親は私を思い、マスクを2枚とフェイスシールドという不審者極まりない格好でショッピングモールに連れ出してくれた。

お揃いのワンピースを買って、広い駐車場で写真を撮って遊んだ。
帰宅後は、父親が夕食にバジルソースのパスタを作ってくれた。

母親は、父親の料理は不味い、と言っていたが、そのバジルソースのパスタはめちゃくちゃに美味しかった。私が美味しいと言うと、出来物のソースを使ってるからだ、と母親は言った。

食事を終え、リビングで夜寝れなくなるなと思いつつ珈琲を飲みダラダラしていたら、父親がこそこそと何かを持ってきて、それを母親に渡した。コンビニで買ったクッキーが2袋、クリップで留められていた。


その日は母親の誕生日だった。

2つのクッキーの袋の隙間には、紙切れが挟まっていた。

”誕生日おめでとう”
・いつも気に掛けてくれてありがとう。
・いつまでも見捨てないでくれてありがとう。
(肩揉み券付き 3回分)
〇〇(母親の名前)さんへ    〇〇(父親の名前)より

なぜ囲ったのわからない引用符と箇条書きで、リビングにある青いペンで丁寧に書かれていた。

紙は、Excelの図形フローチャートを使った波線の枠を薄水色で塗りつぶしていた。父親は会社でそれを印刷したらしい。建設会社で働く父親は、メールの署名の付け方もままならないはずなので、この手紙の枠を作るのに何十分も掛け印刷し直したのだと思う。

母親は喜んでいた。
母は、嬉しい、私が家に帰ってきたからだ、と言った。


私がいることで父親の行動が変わったのかはわからないけれど、父親の行動が変わったのかどうかよりも、受け手の気持ちが変わったのかもしれないと思った。

本当は、父親は毎日、母にクッキーを渡しているのかもしれない。

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