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ある車上生活者の死、遺影のないお葬式

8月追悼集会の日

抱樸は毎年の追悼集会で、路上で亡くなり引き取り手のない方を偲んでいます。小さな木片が墓標代わりです。今年はその木片が「増えなかった」こともあり、少し安心した気持ちで「ひとりで死なない、死なせない」との誓いをみんなで新たにした8月7日でした。集会のあとはいつもの炊き出しのように、各所へ安否確認の「パトロール」に出ます。北九州市は5市が合併した広い市なので、1箇所での「炊き出し」では、会えない方が多いのです(隣県の下関にも行っています)。
その日もボランティアたちが車に分乗して、それぞれの担当エリアへ出発しました。そして夜、22時頃にNPO正会員MLに、とても悲しい知らせが届きました。

若松区の◯◯◯で車上生活をされていたYさんですが、本日のパトロールの際に、車内でお亡くなりになっているのを発見しました。
警察、消防に連絡し、警察が確認等を行っています。
この間の暑さもあり、ご遺体のいたみも激しいため、私も本人確認ができていません。今後、警察の方で本人確認をすることとなります。ご本人の確認が取れた段階で、またご報告させていただきます。
ご家族の引き取りがない場合は、抱樸でお見送りをさせていただきたいと思っております。
ご冥福をお祈り申し上げます。

 発見したのは、長年の正会員で、今はNPOの事業部常務でもある山田さんと、ホームレス状態で抱樸と出会い生活再建し、それからはいつもパトロールに参加しているボランティアのMさんでした。

二人はすぐに警察と消防に連絡、その後警察による検死やご家族の捜索などが行われましたが、ゆかりのある方は見つかりませんでした。

8月13日、抱樸の手でお葬式をすることになりました。
山田さんからの「ご案内」メールに、こう記されていました。

Yさんとのかかわりはとても長いのに、実は詳細な経歴などの記録はありません。かかわった者として、Yさんとの記憶を共有できればと思っています。お時間のある方は、ご参列ください。

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Yさんという人

お葬式の席には、19名が集まりました。山田さんや、かつての路上生活の中でYさんを知る方も来られ、Yさんを間接的にしか知らないわたしたちに、思い出せる限りのことを伝えてくださいました。

抱樸が持っているYさんの記録は2007年から始まっていました。出会った時からYさんは家を持たず、車上生活をしておられました。家屋の防水関係の作業をされており、軽バンにはいろいろと作業道具が積み込まれていました。手先が器用なようで、一人親方のような形で仕事を受けられて、あちこち移動されているようでした。

Yさんは口数が多い方ではありませんでした。どこから来たのか、家族はいるのか、そうしたことは掴みきれていませんでした。それでも、時間が経つにつれて、世間話やラジオやポータブルテレビで見ていた野球などの話を、訪れるボランティアにしてくれるようになっていました。いつもはあまり長話をすることはなかったのですが、Yさんが体調を崩して弱気な様子の時は30分ほどその場に留まっていたりもありました。

また、Yさんは人に助けを求めることもなされない方でした。ボランティアが支援のお弁当や物資を渡そうとしても、「自分は仕事をしてるから困ってない」と断られてきました。一方で、Yさんは周りの人を気に掛ける一面もありました。以前、近くで路上生活をされてた方は「Yさんに自分のラジオを直してもらった」と言われていました。また、顔見知りのホームレス状態の方の具合が悪くなった時、それにいち早く気づき、救急車を呼んでくれたという話もありました。

葬儀の司式は抱樸の正会員の石橋牧師にお願いしました。ご自身もボランティアでパトロールに回られてた時のことも交えながら、お祈りとお見送りをしてくださいました。とても暖かいお葬式だったと思います。しかし、Yさんの生前の写真がないため、そこに遺影はありませんでした。

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Yさんが亡くなっていた車(葬儀の日に撮影)

支援の難しさ—「何かもうひとつ」はなんなのか

山田さんは、Yさんに対して「車ではなくセンターや居宅で生活するのはどうか」と幾度か提案していました。しかし、その度に断られてきました。昨冬Yさんは体調を崩され救急搬送になったこともあり、居宅を勧めたい思いは深まっていました。Yさんは74歳になっていました。

近年、全国的に見ても、また北九州市でも路上生活者、いわゆる「ホームレス」は減少してきました。以前と比べれば、路上生活から脱するための制度が整えられてきたこともその一因です。しかし、それでも生活保護をはじめとする支援を受けようとしない方もおられます。

一般的な感覚で言えば、どう考えても生活保護を受けた方が得じゃないかと思えるような場面でも、そうしない人たちがいます。そこには自分が人生の中で積み上げきた尊厳や生活保護に対する社会的なスティグマ(負のイメージ)が関係しているのかもしれません。あるいは、そうした大きな言葉では語りえないその人個人の経験や感情があるのかもしれません。いずれにしても、私たちがお手伝いしようとしている「自立」というものは、単純に損得の話ではないということを今回改めて考えさせられました。

じつは、ご遺体で発見する10日ほど前にも山田さんはYさんに会っていました。あの時にもっと支援の話をしておけばよかったのではないか。いやもっとそれ以前に、何か別の方法でYさんを支援できたのではないか。何が足りなかったのか。そう山田さんは心情を吐露されました。しかし仮に、よい関係性ができたからといって支援が上手くいくかと言えばそうとも言えません。正会員、特にスタッフは「何かもうひとつ」が必要なのだと考えます。その「何かもうひとつ」がなんなのか、わたしたちはずっと自らに問うています。支援の難しさを改めて痛感します。

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翌週の炊き出しで

再び炊き出しの夜です。8月20日の炊き出しでは、まずYさんへの黙祷を行いました。あるスタッフは、「Yさん、炊き出しの夜、いつものボランティアさんを待っておられたんだと思います。」と言われました。山田さんがパトロールをお休みせざるを得なかった時、Yさんから「山田さんは?」と尋ねられていたそうです。

警察によるとYさんの発見は「死後3日程」ということで、その間ひとり、車の中で誰にも見つけられずにいたのかと思うと胸が苦しくなります。でも「いつもの炊き出し(パトロール)があったから、3日で見つけることが出来たのだ」とも考えたくなります。

お葬式に集まった(牧師を入れて)20名。山田さんは「Yさん、生きてる間にこの20名と会って欲しかった」と語られました。「Yさんがわたしたちと生きた時間を、そしてわたしたちは最期に間に合わなかったことをみんなでかみしめ、今夜も炊き出し、パトロールで路上の方と出会い、ともに時を刻みたいと思います。」

Yさんが生きていたこと、抱樸の仲間も知っています。
この記憶を分かち合って、またみんなで思い出して語りたい。

このいのち、忘れない。

8月20日の炊き出し現場からの報告動画(2分20秒)

そしてYさんの遺骨は、抱樸理事長が牧師をつとめる東八幡キリスト教会の記念室に納骨しました。ここには抱樸と出会って、その後生涯を終え、他に帰るところのない方々が眠っています。これからはYさんとも一緒です。

Yさんのような死は「行路病死」として、亡くなった地の保護課が管轄になります。遺骨は基本的には引き取りがない場合は無縁仏として共同墓地に送られます。北九州市では保護課に「抱樸が支援していました」と連絡すれば、引き取りを任せてくださいます。(ただしどの場合も親族が現れ、希望されたらお返しすることになっています)

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Yさんの車の横に手向けられた花とお供え


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