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2016年「偲ぶ会」奥田理事長あいさつ

「あんたもわしもおんなじいのち」。NPO法人抱樸はこのメッセージを胸に、多くの方々と出会い、ともに生きてきました。いのちに分け隔てなく、その人のありのままを受け止める。「抱樸」という名は原木、荒木を意味する「樸」を抱くという老子の一節に由来しています。出会いから看取りまでみんなで寄り添い、後々までもその人と生きた時を心に刻む。路上から自立した当事者のみなさんやボランティアでつくる「互助会」が毎年一度、先だったなかまを悼む「偲ぶ会」は、このことを再確認する時でもあります。2016年度は128人の方々を追悼しました。その中で奥田知志理事長は、7月に神奈川県相模原市の福祉施設「やまゆり園」で元職員が19人を刺殺した事件を受け、「偲ぶ会」に集う意味を改めて語りかけました。
抄録をお届けします。 2016年 9月2日 抱樸互助会 「偲ぶ会」より

 こうやって亡くなった人を偲ぶこと、もしくは惜しむこと、さらにこの人たちと出会い、一緒に生きたということを自分の大事な思い出だと言うことは、今日この時代においては、すごく大切なことだと思うんです。もっと言うと、今日この時代において、それは闘いだと思います。

 なぜか。私は、やはりこないだ起こった相模原の事件がずっと気になっているから。ある障がい者施設でいくつも障がいのある人たちが、たくさん殺された。(容疑者は)その施設を辞めた後、その施設で事件を起こし19人を殺害した。これは単なる欲求不満とか社会に対して恨みをもっていたとかそういう事件じゃなく、自分が「いいことしてるんだ」というぐらいの気持ちでやっていたと思うんです。つまり、この若者が人間をどうとらえていたか、人間に対する価値観が背景にあったと思うんです。その価値観は「生きる意味のない命は殺していいんだ」という価値観です。「生きる意味のない命だから逆に殺してやることがその人にとっても、もしくは家族にとっても、世の中や社会にとってもいいことなんだ」と彼は胸張ってこの事件を起こしたんですね。

 聞きたいんだけど「生きる意味のある命」と「生きる意味のない命」ってあるんですか?世の中には「生きていていい命」と「生きたらいけない命」があって、「生きていたらいけない」というのは家族も迷惑で税金ばかり使っているから安楽死させろという、そういう命があるんですかね。今の時代は残念ながらそういう考え方がだんだん膨らんできている。私、怖いと思うんです。本当にそうなのか?「生きる意味のある命」という言葉自体、成り立たないんじゃないの?「命に意味がある」と我々は考えてきたし「命そのものに意味」があって「出会いそのものに意味がある」とやってきた。なのに今の時代は命の中に「意味のある命」と「意味のない命」があるかのように論じ始めている。それでいいのか。「意味のない命は殺してしまえ」というお前は何様だ。

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 インターネット上では彼のことよくやったと言う人もおるんよ。どうかなってるんじゃないか、この世の中は。これは昨日や今日始まったことじゃない。12年前、小倉の自立支援センターを開所しようとした時に住民の反対運動が起こった。その反対署名の中にこう書かれてました。「小倉北区の一等地に生産性の低い施設を建てるのには反対」「一等地なんだから生産性の高い商業施設がいい」と。ちょうど同じ時期にNPOのホームページに、こういう書き込みがあった。「生産性の低い人間が迫害を受けるのは当然だ」。当時、ホームページの掲示板が炎上しましたよ。その後、反対していた自治会のみなさんはご理解くださり、今は最大の協力者です。ありがたいことです。

 この流れは昨日や今日始まったことじゃない。小さなものが、ふつふつとこの社会の裏側にはあったんです。すなわち「生産性」の高い人は意味がある、でも「生産性」の低い人、ホームレスは「生産性」が低いから生きる意味が無い。本当にそうなのか?僕はそう思わん。人がもう一回生きようと思って、その人がその人として立ち上がっていく、これほど生産性が高いものはないんじゃないの?もっと言わしてもらうと、そもそも「生産性」が問題なのか。人間に対して、人の命に対して「生産性」という物差しで測らないといかんのか。「生産性」の中身とはなんだったのか。結局は商業施設と比べられた。僕が出会ったこの人たちの「命」と天秤にかけるのは止めてくれと言いたい。商業施設と人間の命とどっちが重いか。そんなこと真剣に議論する価値があるのか。「生産性」とは何か。結局はその物差しは、経済至上主義に裏付けされた金儲けじゃないか。お金にならないものは意味がないと言っているんじゃないか。そういう時代を僕ら生きてる。

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 そういう時代のなかで今日「偲ぶ会」をやりました。この128人全員の命を惜しんだ。だから、これは闘いなんだ。人間の命に「生産性」とか「価値がある、ない」とか「意味がある、ない」とか、そんなことは言わせないという闘い。ここに並んでいる人には楽しく酒飲んで惜しまれながら逝った人もいましたよ。自ら命を絶った人もいます。部屋の中で亡くなり見つかるまでに一、二週間かかった人もいました。そういう別れ方とか出会い方とか様々なんだけども、総じて私たちはこの人たちを惜しんでるんだ。総じて私たちはこの人たちを偲んでるんだ。総じて私たちはこの人たちの命そのものに意味があるって今日は言うために集まったんだ。これはもう闘いです。

 今の時代は、この偲ぶ会をちゃんとやらないといけない時代。今この時代で命を惜しむということをちゃんとやらないと、のみこまれる。「あいつは価値がある」とか「あいつは価値がない」とか、そういうことを平気で言う時代に我々は生きとるんです。NPO法人抱樸はこれからは闘いですよ。抱樸館北九州を建てる時にも反対運動が起こった。今でも反対の旗がたっている。何をもって反対してるんですか。一から十までそういうことに今なろうとしている中で、我々は「人間そのものに意味がある」、「命そのものに意味がある」、「出会いそのものに意味がある」と言いぬく。

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 でもね、これって実は結構難しい。きれいごとでは済まない。私たちは経験してきた。(遺影を振り返り)この中でも結構大変なおっさんいはりましたわ。「命そのものに意味がある」なんて言っても、実際にはもう堪忍してよと、何とかならんかねと思う出会いがあった。(ある遺影に向かい)このIさん、たいへんやった。この中にもこの人に貸したお金、返ってこんかった人おるやろ。人間と人間の出会いは、ほんまにしんどい。迷惑もかけられるし、本当にこの人とつきあって何の意味があるんやろうかと悩みましたよ。しんどいことばっかりやないかと思った日もあった。でも、それすら我々は乗り越えてきたんじゃないですか。乗り越えてきた結果がこの「偲ぶ会」じゃないですか。今日偲んだ人、私たちセレクトしましたか?いい出会いをした人だけ偲びましたか?いいお別れをした人だけ写真並べてきましたか?並べていませんよ。大変な人、いっぱいいる。だけども、その人たちすべてに意味があるというのが今日の「偲ぶ会」の意味ですよ。だから、これは闘いなんだ。この闘いを私たち闘い抜くんだ。

  僕らも実はしんどい議論があった。我々にはひとつの信念があった。「人はいつか変わる」という。NHKの番組「プロフェッショナル」にもキーワードとして出た。あの時、NHKと攻防戦があった。「人はいつか変わる」という言葉は僕らの半分しか現わしてないとNHKに訴えていた。確かに我々が闘ってこられたのは「人はいつか変わる」という確信があったから。どんな人も出会いの中で変わると言ってきたし、実際に多くの人は変わっていかれた。ホームレスから9割以上の方が自立して路上に戻ってないでしょ。だけど、これは下手すると、僕らと出会って変わってくれる人はいい人、僕らと出会って変わらない人は悪い人、つまり「いいホームレス」と「悪いホームレス」という分断が起こる。支援をする意味のあるホームレスと意味のないホームレスがいるかのような価値観にさいなまれ始めた。そうなると「あの人、変わりそうだな」と思える人にいってしまう。「あの人だったら自立するんじゃないか」と思う人にいっちゃう。それが始まった時に私たちは苦しんだ。考えた。そして「人はいつか変わる」という言葉と同時に「変わらなくても人は生きる」という言葉を語ることになった。「人はいつか変わる」という言葉と「変わらなくても人は生きる」。このせめぎ合いの中で俺たちは体を裂かれよう、体を裂かれながら人間とは何か、命とは何か問い続けようと。だから「プロフェッショナル」の番組担当が「『人はいつか変わる』という言葉を使います」と言って来た時に「ちょっと待ってくれ。『人はいつか変わる』の下に、『変わらなくても人は生きる』と入れてくれ」と言った。結局、それでは視聴者が訳が分からなくなるから入れられないと、放送では「人はいつか変わる」だけになった。

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 我々でさえ応答できるいい人と、そうでない人を分けそうになる。(炊き出しパトロールで)いつ訪ねても「帰れ」と言ってたNさん。(会場に座るNさんに向かい)悪いホームレスね(笑)。11年間も弁当を届けさせといて行くたんびに帰れ、帰れ。なんちゅう失礼なおっさんやと思ってた。もう弁当やらんぞと思うけど、そういうわけにいかない。なぜか。それでも人は生きるから弁当を置き続けた。結果、Nさんは変わったんだけど。

 一方でこの前亡くなり、先日夏祭りで追悼したWさん。彼はもうほんとに「助けて」と最後まで言えなかった。最後の最後にやっと「助けて」と言ってきて入院したがもう末期でした。「人はいつか変わる」ということに意味を見出した我々は同時に「変わらなくても人は生きる」、「生きていることに意味がある」と言い続けた。そのことを今やっぱり、我々はちゃんと言わないかんと思います。それが今日の「偲ぶ会」の意味です。「偲ぶ会」は単なる思い出話の会ではない。これは闘いなんだ。この時代に対する闘いとして私たちは偲び続ける。惜しいと思い続けるし、あの人と出会ってよかったな、色々あったけどよかったなと言い続ける。そういうことを今からもやり続けたいと思うんですね。

 日本は「生産性」の価値観にどんどんさいなまれます。私はこれが戦争への道やと思ってる。戦場に人を送るんだったらどういう人を送るのが都合がいいか?まわりから惜しまれている人、まわりから大事だと思われている人、「生産性」高い人を戦場に送ったら大問題になるよ。戦場に送って一番いいのは死んでも誰も悲しまないような人を送ればいい。そのために日ごろから「生産性」の価値観で若者や社会の意識を分断しておく。死んでもらったら困るような大事な若者たちと、早く死んでもらった方が税金つかわんでいいわと思われているような若者たちと色分けしておく。こっちの人たちをどんどん戦場に送ったら誰も悲しみはせんよ、戦争やっても誰も反対しない。そういう風に人の命をないがしろにする道は全部最後には一本につながっている。

 だから、私は今年の「偲ぶ会」には今まで以上の意味があると思う。どうか心に刻んでほしい。そしてひとりひとりが無くてはならない人間だと胸を張って言おう。「意味のある命/意味のない命」なんかないと宣言しよう。命そのものに意味があるんだということを言い貫くNPOであり続けたいと思うんです。

全員で黙祷をしたい。私たちのなかまであった、私たちの家族であった128名を覚えて、この人たちの命を思い、この人たちとの別れを惜しみ、そして出会いを喜ぶため、黙祷をしたいと思います。黙祷―。

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