難病体験コラム 多発性硬化症 50代女性

★左足がない?・・・突然の出来事


 今から約25年ほど前、結婚して1ヶ月経った頃、何の前触れもなく倒れて緊急入院しました。

 朝、目覚めて布団から出た時、突然「左足がない」と思えるほどの感覚に襲われて、立ち上がることができずに、そのまま尻もちをついて、倒れてしまいました。

 何が起こったのか自分でも理解ができず、台所まで這って行って、フォークで左足を突き刺して見たのですが、全く痛みを感じなかったので「これはただ事ではない」と思い、病院に行くと、即入院でした。

 入院直後はしゃべることもできずに、目も見えにくくなり、ほとんど寝たきりでした。

 当時、多発性硬化症の症例も少なく、すぐに診断名はつきませんでした。主治医からは「脳梗塞の疑い」と聞かされていました。

★難病? 理解できないまま・・・

 退院しても症状が完全に治まることはなく、入退院を繰り返すことになりました。

 約1年後、自分の病気は「多発性硬化症」という病気で、「難病」何だと言うことを知ることになったのです。

 当時私の住む市に多発性硬化症の患者はいなかったようです。しかし、たまたま入院していた病院の研修医さんが多発性硬化症を研究されている方で、いろいろと検査をしていただき、診断名が確定しました。

 「難病」と聴いた時、意外と平然と受け入れられたような記憶があります。

 おそらく、その時は「難病」ということの意味を十分に理解できていなかったのかもしれませんが、それがプラスに作用した部分もあり、前向きに「病気に負けないように頑張ろう」と思えたのかもしれません。

★友達とも会いたくない

 難病とわかってからも、気持ちは前向きではあったのですが、体調には波があり、年間7~8回、入退院を繰り返す生活を送っていました。

 そんな不安定な状況でも、少し元気になると「仕事をしたい」とアルバイトをしました。もちろん働いても長続きはしなかったのですが、「何とか現状を変えたい」という思いの表れだったのかもしれません。今考えると無謀ですよね。

 一方で、その頃、友達と会うのがすごくつらかった記憶があります。

 私自身、子どもの頃から「元気」で「明るい」性格だったこともあり、病気になった弱い自分を見せたくなかったのです。

★少しでも良くなりたい

 入退院を繰り返しつつ、「早く社会復帰したい」という思いもあり、リハビリに励む日々がスタートしました。

 ベッド上での運動、歩行器を使って歩く練習、豆をお箸でつまんだり、積み木を積んだり・・・・。地道なリハビリが約3年ほど続きました。

 その頃、多発性硬化症の医療講演会に参加をし、その時に出会ったドクターが「治験」を受けてみないかと、声をかけてくださいました。

 「治験」とは新しい治療法を見つけるための実験のようなものですね。

 その治療法に効果があるのか、逆に副作用がでてしまうのか、わからない状況でしたので、周りからは反対の声もたくさんありました。でも私は、少しでも良くなる可能性があるのなら、チャレンジしたいと思いました。

 具体的には太い注射針を自分自身で身体に刺さなければならず、かなりつらい治療でしたが、それでも「よくなりたい」一心で耐えてきました。


★誰かの役に立ちたい

 私の場合、たまたまその治療方法が身体に合ったのだと思います。発病して3年くらいした頃から、症状が回復してきました。

 少し動けるようになると、まずは介護ヘルパーの資格を取りに行きました。

 家族の介護のこともあったのですが、それとともに「誰かの役に立ちたい」という強い思いがありました。

 「難病だから、いつも誰かのお世話になっている」ということだけではなくて、自分にもできることを一生懸命に探していたのだと思います。

 そして地域の障害児余暇支援事業にもボランティアとして関わらせていただくようになり、そんな中で、少しずつ「自分」を取り戻していったような気がします。

★社会参加の壁

 少しずつ社会との接点ができてくる中で「仕事がしたい」と思い、ハローワークに相談に行きました。

 私は病気を抱えながらも、できる仕事を精一杯頑張りたいと思って相談に行ったのですが、そこでの対応はあまりにも厳しいものでした。

 「仕事を求めるのであれば、病気をしっかりと治してから来てください」「前職を病気を理由にやめているのに、新しい仕事を続けられるわけがない」。相談担当の方の言葉で、絶望感でいっぱいになりました。

 「難病の人は一生働けないのか・・・・」。そんな風に感じてしまったのです。

 当時は難病法もありませんでした。難病者が障害福祉サービスを受けることもできませんでした。制度上、今よりもずっと厳しい時代でした。そんなことも背景にはあったと思うのですが、自分の人生の先行きが全く見えなくなりました。


★難病の人たちとともに

 落ち込んでいたのですが、「いつまでもくよくよしてても仕方がない」と思い。ハローワークを頼らずに、自力で仕事を探し始めました。

 幸いにして大手ショッピングセンターが、私の病気のことを理解してくださって「しんどい時は休んでも良いよ」と優しく受けいれていただくことができました。

 約3年働き続けることができました。「働くことの喜び」を取り戻せた、幸せな時間でした。

 その頃、滋賀県で初めての「難病の人たちが通所できる作業所」ができるということで、そこに「支援員として仕事をしないか」とのお誘いを受けました。

 「誰かの役に立ちたい」と思って取得した介護ヘルパーの資格も生かせる仕事なので、チャレンジしてみることにしました。

★楽しく暮らしたい

 難病の人たちを支援する仕事を通して、いろんな経験をさせていただくことができました。

 それまで「難病」といえば、自分のことを通してしか理解できていませんでした。しかし「難病」といっても、症状も困りごとも本当に様々で、当然支援の中身も変わってくることに気づきました。

 「働く場」を必要としている人もいるし、「日中の居場所」「人とのつながり」を必要としている人もいる。100人いれば100通りの支援が必要なのです。

 私は自分自身の経験や、たくさんの難病の人たちとの出会いの中で「難病の人たちが何の気兼ねもなく、気楽に集まれる場所がほしい」と考え、友人とともに「難病サロン」を作ることにしました。

 日常の中で、なかなか人とのつながりを作りにくい人。病気のことを誰にも相談できずに閉じこもりがちになっている人。とにかくいっぱいおしゃべりしたい人。

 サロンにはいろんなニーズを持った人たちが集まってきました。みんなでいっしょに、「場」を作っていくことがとっても楽しかったのです。

 難病になったから「何もできない」わけではないのです。みんなで集まって、力を寄せ合えば、きっと楽しい暮らしが築いて行けるのだと思います。

 「みんなでつながりあって、笑顔で暮らしたい」

 今も持ち続けている、ちっちゃくて、おっきな願いです。


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