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プログラムできているつもりになっていないかと、ラシュコフは問う(年吉聡太 ) #7

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年吉聡太 | Sota Toshiyoshi
Quartz Japan」編集長。1979年宮崎県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、ライフスタイル情報誌などの雑誌編集に携わったのち、2008年にブランディングサイト「X BRAND by Yahoo! JAPAN」立ち上げに参加。「ライフハッカー[日本版]」をはじめとするデジタルメディアの編集長を経験。2014年コンデナスト・ジャパンに入社し、「WIRED日本版」副編集長を務める(〜17年)。2020年1月より現職。

先ごろ邦訳が発行されたダグラス・ラシュコフの『ネット社会を生きる10カ条』(堺屋七左衛門訳、ボイジャー刊)の原書は、10年前に発表されている。原題は「Program or Be Programmed」。直訳すれば「プログラムするのか、されるのか」というタイトルの、デジタル社会に生きるすべての人に対する警句と思いやりに満ちた一冊だ。

その発刊に前後して、NewsPicksパブリッシング編集部から「雑誌の未来/デジタルメディアの未来」というお題をもらった。

雑誌の「デジタル化」の10年

つい先日にも、日本を代表する老舗写真雑誌が、その1世紀近い歴史に幕を下ろすことが公になった。先立つこと5月には、1990年に創刊された由緒ある地域情報誌も同じく休刊を迎えている。もっとも、雑誌不況はここ十数年にわたっていわれていることで、こうした休刊の知らせはもはや珍しくもない。むしろ、20年前に雑誌編集部でキャリアをスタートした自分にとっては、この仕事に就いて以来、常に「雑誌の(先行きの明るくない)未来」が付きまとってきた感覚すらある。

とくに直近の10年を振り返ると、それは雑誌の衰退があからさまになり、対してデジタルメディアの勃興が目立つ10年だった。大手IT企業によるインターネット上のテキストや写真の無断使用にまつわる問題にはじまり、それら新興デジタルメディアの扱う情報の信ぴょう性やモラルを問うような、いかにも過渡期らしいごたごたが多発した。一方、既存メディアのデジタルシフトを促すようなメディア論も多く語られた。たとえば「雑誌はスマートフォンに取って代わられた」「可処分時間の奪い合いに雑誌は勝てなかった」などという話を、意識の高いメディア関係者はいつも口にしていた。

しかしながら、いま、雑誌そのものが総じてデジタルに取って代わられているかというとそんなことはない。残る雑誌メディアは残るべくして残り、一方では美しいビジュアルをふんだんに使ったマガジンがクラウドファンディングで多くの支持を得て、印刷メディアにユニークなクオリティを追求できる状況も生まれている。若い書き手を中心に紙媒体への回帰が広がり、ZINE界隈も大いに盛り上がっている。

かたや、雑誌側に色濃くあったデジタル化に対する抵抗も、もはやない。雑誌メディアのほとんどがウェブサイトを開設し、そこでの広告掲載をあてこんだ。やがて広告出稿に陰りがみえると、サブスクリプションモデルへの転換をめざし、あるいは「会員」を囲い込み、コミュニティビジネスを志向するようになった。

ビジネス規模とは異なる理屈で雑誌が残り、ビジネス規模を追求するためにデジタル化を推進する両端の流れがあるなかで、いま、「雑誌」と「デジタルメディア」を関連づけて考えることに、果たしてどのような意味があるのか。それはおそらく「雑誌は何を担っていたのか」という問いを端緒として、「デジタルメディアはその役割を担えているのか」を考えることなのだ。それは、さらにいえば、「デジタルメディアの役割とは何か」ということでもあるだろう。

いま、10年を経て邦訳されたラシュコフのことばは、同じ年月の分だけデジタルの“プログラム”に右往左往してきたメディアの来し方を思考するガイドとするのにふさわしい。そう思われて、スマートフォンのブラウザで、本書のページをめくった(『ネット社会を生きる10カ条』は、ブラウザでの閲覧限定の電子書籍で発行されている)。

そもそも「それ」は何だったのか

本書で展開されるラシュコフのアイデアは、あらゆるテクノロジーがもつ「偏向」と人間の価値観との関係性に基づいている。

ラシュコフに言わせると、テクノロジーは人間の価値観を構成する「前提条件」だ。「文字が使われている世界では、文字が読めないことは知識がないのと同じ」であり、「コンピューターによって定義される世界では、速度と効率が重要な価値」となり、「進歩した技術の受け入れを拒否することは、社会的規範を拒否するのと同じ」とさえ言う。

だからこそ、人間にはテクノロジーの偏向を理解し、対処することが迫られていると訴える。とりわけデジタル時代においては、生活のあらゆる局面に作用しているツールを動かす「プログラム」の偏向を知ることが必要で、さらにプログラムする方法を知ることでテクノロジーの偏向に抗うことができるとも言う。

ラシュコフの言うテクノロジーの「偏向」を理解するには、テクノロジーが進化してきた道筋を考えるのが有効だ。そして、テクノロジーの進化という話になると、2年前まで、「WIRED」という「テクノロジーによるディスラプションと、そこに起きるイノベーション」を伝えるメディアで仕事をしていた経験は、自分にとって大きな財産になっている。

WIRED編集部に在籍していた期間は2014〜2018年と短い間だったものの、その間のデジタルテクノロジーの進化は目覚ましく、その現場を離れてたった2年しか経っていないというのに、当時記事が扱っていた話題には懐かしささえ覚える。人工知能が世界最高の囲碁棋士を打ち負かしたのは2016年で、同じ年には米大統領選をきっかけにポストトゥルースにまつわる議論が巻き起こり、ソーシャルメディアに対する不信が世界中に広がった。翌17年には、仮想通貨ビットコインが一部の好事家の域を超え、大流行している。

挙げたように、扱う対象は新たに登場したテクノロジーだったが、編集部でもっぱら議論されていたのは、「そのあたらしいとされるテクノロジーは、かつて何が担っていた役割を代替するものなのか」、ということだった。

例えば「仮想通貨は、貨幣を代替するのではなく、コミュニケーションの代替物である」。あるいは、「先進国では宅配ドローンが『配送車』を代替している。一方、アフリカにおいては『道路』を代替するものとなっている」と、こんな具合だ。

ゆえに、テック・シンカーであるダグラス・ラシュコフがインターネット史を紐解きながら持論を展開する本書において、登場したばかりの「電子メール」は「手紙」の代替ではなく「電話」の代替であったと語るのには、強く共感する。

通信をしたい相手が家にいるのを発見し、つかまえて対話をする電話に対して、「相手が望んだときに、つながる」電子メールは、とくにそれが携帯電話のない当時からすると、電話に成り代わるものとして大いに歓迎されたはずだ。

ラシュコフは、電子メールには、リアルタイムで相手と同期してコミュニケーションするものではないという「偏向」があると言う。翻って、雑誌というテクノロジーにはどんな「偏向」があり、「何が代替される」かを考えようとすると、それは、大きく情報を扱っているのか、あるいは別の何かを扱っているかで分かれそうだ。

代替する「役割」とは何なのか。見誤ってはいけない。

雑誌が扱うのが「情報」であるならば、デジタルに代替されることによって生まれるメリットは大きいだろう。いつでもどこでも閲覧できて、思い通りに検索することを可能にするデジタルテクノロジーは、とにかく情報を扱うのに長けている。

だから、生き残れなかった雑誌に共通する理由があるとすれば、それが新たなサービスによって代替されたからだ。最近ではもっぱら「雑誌の生き残りの道は、サービス化することにある」ともいわれるが、雑誌が扱ってきたのが「情報」のみであったなら、その言説にも納得がいく。

しかし、雑誌が扱うのは情報のみではない。そして、こと「情報以外のもの」を扱うことに関して、デジタルにできることは、今はまだ限定的だ。とくに、ユーザーがそこに集まる理由をつくろうとすると大いに苦労する。そのことは、以下のラシュコフのことばからもよくわかる。

「ユーザーは、中央で取り上げられた話題やすぐわかるブランドに依存しがちです。それは、デジタルネイティブの若者たちにとって案内標識のようなものです。彼らは、ものごとを理解したり方針を決めたりするときに、デジタルイミグラント、すなわちアナログからデジタルへの移住者と比べて、ブランドや既存の基準への依存が強くなっています。」

同時にラシュコフは、デジタル世界を通じて情報にアクセスすることは「現実世界の複雑さを低下させる傾向がある」とも言う。

昨今メディア上で踊っていた「多様性」ということばが、いよいよ現実の問題として表出し始めている。気に入るか気に入らないかで対象を分け、前者を賛美して後者をこき下ろすさまが激化の一途を辿っている。メディアはむしろ、敵か味方かの分かりやすい対立構造を描き、抱え込んだユーザーを動員している。

物事を単純化させるデジタルならではの偏向を理解しているかのように振る舞ってきたメディアが、いま改めて、複雑さに向き合うことを迫られているのは間違いない。

ラシュコフはこうも言っている。

「行動主義とは、ウェブサイトを探すこと、ウェブでの活動に参加すること、あるいはその主張に『いいね』することです。これらはみな、リアルな場でのかかわりよりも重要度が高いのです。オンラインで学び、判断し、仲間になろうとするときには、誰にでもアクセスできて、かつ世間に受け入れられているシンボルがあることが大切なのです」

デジタルメディアに求められる役割が何かと問われれば、それはきっと、デジタル世界を組み上げるプログラムの「偏向」に諦めることなく、「プログラムする」ことに挑むことなのだ。その最初の一歩として有効なのは、自分たちの支持者と改めて向き合い、「自分たちは誰の声を預かっているのか」ということを改めて定義し、“シンボル”を世に問うことなのだろう。そしてそのプロセスは、雑誌がかつて担っていた役割を見直すことにつながるのだ。

【NewsPicks Publishing Newsletter vol.7(2020.6.6配信)より再掲】

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