サピエンスが一人で生きていけない理由──『世界は贈与でできている』#2
社会を裏で支えている「お金で買えないもの=贈与の原理」とは何か? どうすれば「幸福」に生きられるのか? 人間と社会の意外な本質をえぐり出し、各所で話題の哲学者・近内悠太さん。待望のデビュー著書『世界は贈与でできている』を、一部特別公開します。
私たちNewsPicksパブリッシングは新たな読書体験を通じて、「経済と文化の両利き」を増やし、世界の変革を担っていきます。
第1章 What Money Can't Buy──「お金で買えないもの」の正体(前編)
なぜ僕ら人間は他者と協力し合い、助け合うのか。
どうして一人では生きていけなくなったのか。
言い換えれば、僕らが社会を作り、その中でしか生きていけなくなってしまったのはなぜか。
その最初のきっかけは、進化の中でホモ・サピエンスが、直立二足歩行をしてしまったことによってもたらされました。
すべてはヒトの「早産」から始まった
人間の新生児はなぜ未熟な状態で生まれてくるのでしょうか。 たとえば馬は生まれた直後に立ち上がることができます。しかし、人間の新生児は立つことも、一人でものを食べることもできません。 なぜ人間の乳幼児は、周囲の年長者による保護や教育が与えられなければ生きていくことができないという「弱さ」を抱えることになったのでしょうか。 ヒントは「直立歩行に適さない骨格」と「大きな脳」です。
日本でもベストセラーになったユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』でも紹介されている議論ですが、ハラリによると、霊長類の骨格はもともと四足歩行に適したものでした。四足歩行から直立歩行に移行するには腰回り、つまり骨盤を細める必要があり、それにともなって女性は産道が狭くなりました。
またこのとき、人間は他の動物たちよりもずっと大きな脳を獲得しつつありました。
つまり、人間の赤ちゃんは大きな脳を携えながら、狭くなった産道を通って生まれてこなければならないという難点を抱えることになったわけです。人間は哺乳類の中で最も難産な種だそうです。
進化はどのようにしてこれを解決したかというと、脳の発達が完了する前の段階、すなわち「頭が大きくなる前の段階で出産する」という道を選びました。それにより母体の生存率と子供の出生率が上がり、自然選択によって人間は早期の出産をするようになりました。
このようにして、人間は未熟な状態で生まれてくることになったわけです。
さて、重要なのはここからです。
出産後、成長途中の未熟な乳幼児を抱えた母親は数年間にわたって食べ物を自身の力で採集することができず、子育てを周囲の人間に手伝ってもらわなければならなくなりました。それと同時に、人間のある能力が発達します。
ハラリの言葉を引きます。
人間が子供を育てるには、仲間が力を合わせなければならないのだ。したがって、進化は強い社会的絆を結べる者を優遇した。
(『サピエンス全史(上)』、22‐23頁、強調引用者)
進化のプロセスからすれば、脳の小さい未熟な新生児を産むという解決策ではなく、大人の身体のほうが進化して、直立歩行を可能にしながらも骨盤を大きくしたり、産道を広くするなどして脳が完成した子供を産めるようにする、という選択肢もありえたはずです。
しかし、自然はそのような身体的拡張ではなく、社会的能力のほうを選びました。
子育てや互いの生存のための信頼できる仲間。見返りを求めず助け合える関係性。
僕らは、僕らが人間となって文字通り立ち上がった瞬間から、つまり、人類の黎明期の一番初めから、「他者からの贈与」「他者への贈与」を前提として生きてゆくことを運命づけられてしまったのです。そして、そのような仕方で僕らはかろうじてこの世界を生き延びてきました。
「お金で買えないもの」とは何か
信頼関係や助け合いは明らかに「サービス」ではありません。ましてや「商品」ではありません。そもそも市場というものが出現するはるか以前からある人類学的慣習ですから、そのようなタームで語れるはずがありません。それらはいわば「お金では買えないもの」です。
「お金で買えないもの」。これはたしかによく耳にする言葉です。
しかし僕が気になるのは、ここに「否定」が入り込んでいることです。
お金で買えないもの、という否定的定義。
たとえば「猫」はたしかに「犬ではないもの」ですが、それで猫が十全に定義され、説明されているわけではもちろんありません。
「猫とは何か?」と問うたときに「犬ではないもののことだ」という答えに満足できる人はいないでしょう。なのに、なぜ「お金で買えないもの」という言い方に僕らは満足してしまうのでしょうか?
その言葉によって、何かが言い表された気になるだけで、それがどのようなものであり、どのような効果を僕らにもたらすのかは一向に分かりません。
お金では買えないもの。それは一体何なのでしょうか?
僕らが必要としているにもかかわらずお金で買うことのできないものおよびその移動を、ひとまず「贈与」と呼ぶことにします。それは定義上、商品やサービスという「市場に登場するもの」とは異なるものとなります。
では、お金で買えないものは、どうやって手に入れたらいいのでしょうか。お金で買えないものは、どこから僕らのもとにやってくるのでしょうか?
プレゼントの謎
そもそも、どうして私たちは互いにプレゼントを贈り合うのでしょうか。
誕生日、クリスマス、バレンタインデー、母の日、父の日、あるいは何かの記念日。
ほしいものがあるなら各々が自分で買えばいいのに、なぜか私たちはプレゼントという慣習を持っています。
プレゼントという慣習の理由。
それは、誰かからプレゼントとして手渡された瞬間に、「モノ」がモノでなくなるからです。
もし自分で買ってしまったら、どれほど高価なものであっても、それはあくまでも「モノ」としての存在を超え出ることができません。
どういうことか。
親しい人から誕生日に腕時計をプレゼントされたとしましょう。その腕時計がどこかのお店で購入されたものならば、それ自体はただの「モノ」にすぎません。この世界にただ一つしかない特別な時計などではなく、他の誰でも対価さえ支払えば購入できる、交換可能な「商品」でしかありません。
ところが、その腕時計が「贈り物」として手渡された瞬間、事態は一変します。
たとえば、その時計を壊してしまったり、あるいは無くしてしまったりしたとき、僕らは何を感じるでしょうか。
もらった相手にその事実を隠したまま、同じモノを自分で購入してそしらぬ顔でやり過ごす、というようなことはしないと思います。多くの人は、相手に対して申し訳ないと感じたり、「なんでもっと丁寧に扱わなかったんだろう」とひどく後悔したり、落としたと思われる場所まで探しに行ったりするはずです。他人からすれば「たかが時計だろ? 何十万円もするものでもないし」と思っても、本人にとっては非常にショッキングな出来事です。
もし仮に、まったく同じ型の時計をこっそり購入して、相手にそのことを黙ったままやり過ごすとしたら、僕らの多くはその後ろめたさに耐えられないはずです。
プレゼントされた時計も、無くした後に自分で購入した時計も、モノとしては等価なはずなのに、僕らはどうしてもそうは思うことができません。そこには、モノとしての価値、つまり商品としての価値からはみ出す何かがあると無意識に感じるのです。商品価値、市場価値には回収できない「余剰」を帯びると言ってもいいかもしれません。そしてその余剰が、単なる商品だったその腕時計に唯一無二性、言い換えれば固有名を与えることになるのです。
重要なのは、「その余剰分を自分自身では買うことができない」という点です。なぜなら、その余剰は誰かから贈られた瞬間に初めてこの世界に立ち現れるものだからです。
モノは、誰かから贈られた瞬間に、この世界にたった一つしかない特別な存在へと変貌します。贈与とは、モノを「モノではないもの」へと変換させる創造的行為に他ならないのです。
だから僕らは、他者から贈与されることでしか、本当に大切なものを手にすることができないのです。
「自分へのごほうび」という言葉の空虚さの理由がここにあります。
ごほうびは本来、誰かから与えられるものです。だからそれは買うことのできないもの、すなわち贈与なのです。
贈与が嫌いな経済学者
マイケル・サンデルは「経済学者は贈り物が好きではない。より正確に言えば、合理的な社会的慣行としての贈り物の意味を理解するのに苦労している」と述べています(『それをお金で買いますか』、146頁)。
経済学的視点に立てば、プレゼントを買ってはならない、現金を渡すべきだと結論づけられてしまいます。それは以下のような市場の論理から導かれるものです。
「人は一般に、自分の好みを最もよく知っている」という前提を認めるならば、他人がプレゼントを購入して渡した場合、支払った金額と同額のものを受取人自身が購入した場合よりも効用が必ず小さくなる。そして、そこに「プレゼントの目的は、その受取人を幸せにすること(受取人の効用を最大化すること)である」という前提を付け加えるならば、プレゼントを買って渡すのではなく、使うはずだった現金を渡すべきであるということになる。
もらって困るもの、気持ちはありがたいが正直いらないものをプレゼントされることはたしかにあります。ですが、「正しいプレゼント、つまりプレゼントの正解は現金である」という主張は僕らの直感に反します。やはり贈与には、市場価値には回収できない何らかの余剰が隠されていると感じるはずです。
またサンデルは、お金で買えないものとして、「ノーベル賞」を挙げています。
たとえば、ノーベル委員会が毎年一つのノーベル賞を競売にかけるとしても、買われた賞は本物とは違うだろう。こうした市場取引は、ノーベル賞に価値をもたらす善を消し去ってしまう。ノーベル賞は名誉を表す善だからだ。それをお金で買ってしまえば、手に入れたいと思っている善は台無しになる。
(『それをお金で買いますか』、140頁)
サンデルは「善」と表現していますが、これも贈与によってもたらされる余剰の一形態です。そして、その余剰は買った瞬間にどこかへ消えてしまうのです。
当たり前ですが、ノーベル賞は買うものではありません。それは授与されるもの、贈られるものです。
お金で買えないものは、贈与として僕らのもとへやってくる。
お金で買えないものの一切は、誰かから手渡されることによって、僕らの目の前に立ち現れる。
「祝う」と「祝われる」、どちらがうれしいか
さて、贈与の不可解な点はまだあります。
それは、贈り物はもらうだけでなく、贈る側、つまり差出人になることのほうが時として喜びが大きいという点にあります。
たしかに、自分の誕生日を誰にも祝ってもらえないとしたら寂しい。でもそれ以上に、もし自分に「誕生日を祝ってあげる大切な人」「お祝いさせてくれる人」がいなかったとしたら、もっと寂しい。
なぜもらうことよりも、あげることのほうがうれしいのでしょうか。
なぜ自分が祝われる以上に、誰かを祝うことが自身の喜びになるのか?
恋愛の場面が一番分かりやすいと思いますが、気になる相手に何かプレゼントを渡そうとしたとき、受け取ってもらえないという悲劇が起こることがあります。
贈与の受取の拒否。
それは何を意味するかというと、関係性の拒否です。つまり「私はあなたと特別なつながりを持つつもりはない」という宣言となります。
なぜ贈与がつながりを生み出すかというと、贈与には必ず返礼が後続するからです。
「この前もらったお礼に……」
そのお礼はまたお礼を促します。そして、その返礼は再び贈与として相手に手渡され、さらに再返礼、再々返礼……と、その関係性は「贈与の応酬」に変貌します。
つまり、贈与を受け取ってくれるということは、その相手がこちらと何らかの関係性、つまり「つながり」を持つことを受け入れてくれたことを意味します。
こちらの好意や善意は、必ずしも相手に受け入れられるとは限りません。
だから、プレゼントを受け取ってくれたり、こちらの祝福を受け入れてくれたりしたとき、僕らはうれしく感じるのです。
なぜ親は孫がほしいのか
僕が実家で過ごしていた、ある年の正月のこと。
還暦を過ぎた母に何気なく「運動のために犬でも飼ったら? プレゼントしようか?」と言うと、間髪をいれずにこう言い返されてしまいました。
「犬よりも孫がほしい」
母の、居合のような切り返しに思わず閉口してしまいました。とは言え、「耳が痛い」というよりもむしろ好奇心のほうが勝ったのを覚えています。なるほど、親は子に向かって「孫が見たい」と本当に言うのだな、と。
それまで僕は、この類の言葉を口にするのはドラマや映画、小説の登場人物だけだと思っていました。
僕の実家は、別に保守的な家柄ではありません。「長男が家と墓を継げ」といったプレッシャーを感じたことは一度もありません。むしろ僕はリベラルな環境で育てられました。そんな僕の母親まで、まるで判を押したかのようにこのセリフを口にするとは思いもしませんでした。
それと同時に、ここで僕は何らかの重要な場面に立ち会っているような気がしてきました。ある種の通過儀礼というか、人類学的に考察可能な局面に居合わせているという予感です。
なぜなら、母のその言葉があまりにも定型的だったからです。「構造的」と言ってもいいかもしれません。母の人格や自由意思とは無関係に、「ある一定の年齢を超えた子を持つ親」という時限的なポジションによって構造的に強制された力学が、ここには働いているような気がしたのです。
なぜ親というのは、こうも孫の顔が見たい人たちなのでしょう?
彼らの価値観を「結婚するのもしないのも、子を持つのも持たないのも当人の自由だ」「古い価値観を押しつけるな」と切り捨てるのはかんたんです。
ですが、こういうふうに問いを立ててみると、世界をより深く理解できることがあります──。
一見不合理なこの「定型性」を合理的なものとして理解するためには、どのような仮説が考えられるのか? と。
「無償の愛」という誤解
親は、愛という形で子に贈与をします〔*以下の議論はあえて「親子愛」といったものを無批判に単純化しています。これは、経済学や物理学などにおける、理論モデルを立てるための「理想化」と同様です〕。
特に子供が小さいうちは、さまざまな世話をし、四六時中配慮して養育します。もちろん、学費などの金銭的な負担もあります。
では、はたして親は、経済学的な理由(=合理的な理由)から子を育てるのでしょうか。
「老後の面倒を見てもらおう」とか「今からプログラミングを習わせておけば、給料のよい仕事につけるはずだから、将来は親の私も金に困らないはずだ」などと見返りを期待して子を育てる親はおそらくいないはずです。
つまり、親が子を育てるのは一方的な贈与です。見返りを求めない、いわゆる無償の愛です。
けれども、「無償の愛」という表現には、誤解が含まれています。
どういうことか。
贈与の宛先である子供からの見返りを期待しない、という点では正しい。
ですが、無から生まれる愛、というのは誤解です。
あるコミュニケーション(言語的なものだけでなく、モノを介したやりとり、手助けしてもらう、他者を頼るなどの「行為」も含みます)が贈与であるならば、そこには先行する贈与があります。その「私は受け取ってしまった」という被贈与感、つまり「負い目」に起動されて、贈与は次々と渡されていきます。
親の無償の愛の以前に、何があるか。
それは、そのまた親(子から見れば祖父母)からの無償の愛です。
無償の愛は必ず「前史」=プレヒストリーを持っています。
それは、愛以前の愛、贈与以前の贈与と言うこともできます。
親もまた、その親から、容姿が優れているとか才能があるとか、あるいは経済学的メリットといった「愛されるべき根拠」を欠いたまま育てられたのです。
「私には育ててもらえるだけの根拠も理由もない。にもかかわらず、十全に愛されてしまった」、つまり「不当に愛されてしまった」という自覚、気づき、あるいはその感覚が、子に「負債」を負わせます(もしそこに確固たる理由があるならば、それは愛でも贈与でもなく、ただの「等価交換」です)。
それゆえ、意識的か無意識的かを問わず、負い目を相殺するための返礼、つまり「反対給付の義務」が子の内側に生じます。
反対給付の義務に衝き動かされた、返礼の相手が異なる(つまり恩「返し」ではない)贈与。これこそが「無償の愛」の正体です。
したがって、無償の愛にはある不安が付きまといます。親は子を育てながら、常にこの不安を携えています。
「私の愛は正しかったのか?」
それはつまりこういう疑念です。
「私もまた、親に愛されて育ってしまった。私はその贈与を正しく自分の子に渡せたのか?」
子がすこやかに成長することを通して、親は自身の贈与が意味あるものだったと一応は納得できます。
ですが、人間は社会的な存在でもあります。身体的な成長というだけではなく、精神的な成長にいたったか否かが贈与をうまく渡せたか否かの指標となります。
それゆえ、子が自立するまで、親は反対給付の義務のただ中にいることになります。
では、親は何をもって自分の愛の正当性を確認できるのでしょうか。
子がふたたび他者を愛することのできる主体になったことによってです。
私の贈与は正しく完了したのか? それは、贈与の宛先である子がふたたび贈与主体となるという事実を通して初めて完了したと認識できるのです。
「私の愛は正しかったのか?」
「私の出したパスは、正しく受け取ってもらえただろうか?」
つまり、親としての過去のあらゆる行為の意味づけが保留されたままなのです。この疑念が親に「孫が見たい」と言わせるのです。
この見解は僕のオリジナルではありません。かのカール・マルクスがそのように論じています。
もし君が相手の愛を呼びおこすことなく愛するなら、すなわち、もし君の愛が愛として相手の愛を生み出さなければ、もし君が愛しつつある人間としての君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛は無力であり、一つの不幸である。
(『経済学・哲学草稿』、187頁、強調は原文)
マルクスの言葉を「贈与」に置き換えるとこうなります。
「贈与は、贈与を生まなければ無力である」
(ところで、ここまでの議論から、「なぜ祖父母は孫を溺愛するのか」も理解できます。祖父母にとって、孫は贈与の義務から解放された対象です。厳格な「父」が孫を抱いた瞬間、柔和な「おじいちゃん」に一変する──という現象は、義務を果たしたことからくる余裕によるのかもしれません。)
映画「ペイ・フォワード」にみる贈与の困難さ
「親の愛」に端的に見られるように、贈与は市場における「金銭的交換」とはまったく異なる性質を持っています。簡単にいうと、市場での交換は「さっぱり」しているのです。それは等価交換が1ターンで瞬時に終わるからです。
そして、交換は誰とでもできます。というよりも、相手が誰であってもいいのです。対価さえちゃんと払えるのならば。
コンビニを見てください。コンビニの店員は相手が小学生であってもマニュアル通り、「敬語」で接客します(僕は一度だけその貴重な場面を目撃したことがあります)。「相手が誰であろうと関係ない」という姿勢が、そうする必要がない相手にすら敬語で接するという所作に示されています。
そこには「この客には支払い能力がある」という「信用」はありますが、「信頼」はありません。「この前、これを買ってくれたから、お礼にこれをどうぞ」という返礼はそこにはありません。他者とのつながりを生み出さないからこそ、交換はどこでも誰とでもできるのです。さっぱりしているとはそういうことです。
それに対して、贈与はすぐには完結しませんし、相手が誰でもいいわけではありません。親子間の贈与で言えば、子が他者を愛せる人間となったとき、贈与の受け渡しがやっと完了するのです。しかも、その子の愛が愛であるならば、その愛を受け取ることのできた相手は、また誰かに贈与を行うはずです。
交換は1ターンで終わるが、贈与は対流する。
では、「交換」には回収されない贈与の構造とは一体何なのか。
それを突きとめるために、「ペイ・フォワード」というアメリカ映画(ミミ・レダー監督、2000年)を観ることにしましょう。
はじめに 贈与の原理と世界の成り立ち
1章 What Money Can't Buy─「お金で買えないもの」の正体
2章 ギブ&テイクの限界点
3章 贈与が「呪い」になるとき
4章 サンタクロースの正体
5章 僕らは言語ゲームを生きている
6章 「常識を疑え」を疑え
7章 世界と出会い直すための「逸脱的思考」
8章 アンサング・ヒーローが支える日常
9章 贈与のメッセンジャー
おわりに