なぜ「ペイ・フォワード」は必ず失敗するのか?──『世界は贈与でできている』#3
社会を裏で支えている「お金で買えないもの=贈与の原理」とは何か? どうすれば「幸福」に生きられるのか? 人間と社会の意外な本質をえぐり出し、各所で話題の哲学者・近内悠太さん。待望のデビュー著書『世界は贈与でできている』を、一部特別公開します。
私たちNewsPicksパブリッシングは新たな読書体験を通じて、「経済と文化の両利き」を増やし、世界の変革を担っていきます。
1章 What Money Can't Buy─「お金で買えないもの」の正体(後編)
映画「ペイ・フォワード」は、贈与を理解するための格好の題材です。この作品のストーリー全体を考察することで、僕らは贈与の力学を極めてクリアーに把握できます。
ですが、この映画は、実は贈与の物語ではありません。贈与の失敗の物語なのです。つまり、贈与の本質的困難さを描いた映画なのです。
贈与の「起源」をたどれ
(以下では「ペイ・フォワード」の結末に触れています。ご理解ください)
物語の狂言回しである新聞記者クリスが、とある事件現場に駆けつける場面で、この映画は幕を開けます。逃走する犯人の車にぶつけられ、クリスの車は大破してしまいます。
ぼう然としているクリスに、一人の紳士が声をかけます。彼はいきなりクリスに向かって車の鍵を投げて渡します。
それは、路肩に停められていた、紳士が所有する新車のジャガーの鍵でした。
訳が分からず、いぶかるクリスに、紳士はこう言い放って立ち去ります。
「赤の他人からの善意だ」
それから数日後。クリスは紳士のもとを訪ね、記者の性分も手伝って、真意を聞き出そうとします。
紳士が語ったのはこんな過去でした。娘がぜんそくの発作を起こし、救命救急に連れて行ったものの、一向に処置の順番が回ってきません。症状が悪化する娘のかたわらでいらだちと不安を募らせていると、腕に怪我をしていたひとりの男性患者が、「自分の処置はいいからこの娘さんを先に見てやれ」と順番を譲ってくれたといいます。
お礼がしたいと言う紳士に、男性はこう告げます。
「お礼はいいから、次へ渡しなさい(Pay it forward)」
自分ではなく誰か別の3人に「善い行い」をすることで恩を返すように。そう伝えたというのです。
紳士からこの話を聞いたクリスは、次にその順番を譲った男性患者を訪ねます。
彼に誰からペイ・フォワードされたのかを聞き出し、そのまた贈与の主を訪ねる……というように、クリスは先行する贈与者を順に突き止め、「次の3人に渡せと最初に告げた人物」まで贈与の流れをさかのぼっていきます。
その最初の人物こそ、この映画の主人公であるトレバー少年でした。
トレバーは、社会科教師シモネットの授業で与えられた、「世界を変える方法を考え、それを実行してみよう」という課題に対して、善い行いを受けたら3人にパスをするという「ペイ・フォワード運動」を思いつき、それを実行したのでした。
少しずつ確実に町中に「贈与のフロー」が広がっていくさまが描かれるこの物語は、意外な、そしてショッキングな結末を迎えます。
ようやくトレバー少年にたどり着いたクリスは、トレバーの学校を訪れ、彼にインタビューを行います。その直後、トレバーは友人が同級生からいじめられているのを止めに入ろうとして、加害者生徒のナイフがはずみで刺さってしまい、命を落とすのです。
トレバーのインタビューがテレビで放送され、そして彼が亡くなったというニュースが流れます。
トレバーの家で悲しみにくれる母親とシモネット先生。彼らがふと窓の外を見やると、そこにはロウソクに火をともし、トレバーの死を悼むために家の前に集まった大勢の群衆──おそらくペイ・フォワードを受け取ったであろう人びと──の姿がありました。そんなシーンで映画は幕を閉じます。
この結末は、贈与論的に考えたとき極めて正しいものだと僕は考えます。
贈与の起点となった少年が命を落とすという悲劇。
これは、単に物語を盛り上げるための仕掛けではありません。ましてや「善意は必ずしも報われない」だとか「人のために何かをするというのは手放しで素晴らしいことだ」といった凡庸な教訓を引き出すためでもありません。
贈与の構造を考えれば、この結末にならざるを得なかったのです。
どういうことか?
受け取ることなく贈与した者の悲劇
なぜトレバーは命を落とさなければならなかったのか。
この映画には、結末を暗示するような場面がいくつかあります。
ある時、シモネット先生はトレバーにこう尋ねます。
「世界は君に何を期待している?」
するとトレバーは答えます。
「何も」
その返答のためらいの無さに、先生は言葉に詰まります。
期待されている側にとってみれば、期待とはすなわち果たすべき責任です。トレバーは、世界に対して自分には何の責任もない、と宣言したことになります。
言い換えれば、私は世界から何も付託されていない、負い目は無いということです。
それは、私は何の贈与も受け取っていない、という言葉と同義です。
実はそうなのです。
トレバーの境遇は恵まれたものではありません。母親は、実はアルコール依存症をかかえています。家を出た父親からはDVを受けていたことが示唆されており、トレバーは彼が戻ってくるのではないかと怯えています。
学校では友人がいじめにあっています。そして学校の帰り道にはホームレスたちの住みかがあり、彼らの生活ぶりを目の当たりにしています。
なぜペイ・フォワードという仕組みを思いついたのかとシモネット先生に問われたときも、トレバーは答えます。
「何もかも最悪だから」
トレバーは、柔らかな毛布に包まれるような愛を知らずに育ちました。彼は、少なくとも本人の主観的には、贈与を受け取ったという実感を持つことができていません。
ここがこの物語の結末の謎を解くポイントです。
なぜトレバーは殺されなくてはならなかったのか。
それは、彼が贈与を受け取ることなく贈与を開始してしまったからです。
つまり、贈与を受け取ってしまったという負い目に駆動されることなく、自らがすべての起点となって贈与を始めてしまったからなのです。
神学者アクィナスの「不動の動者」
キリスト教神学に「不動の動者」という概念があります。
神学者であり哲学者でもあったトマス・アクィナスは次のような「神の存在証明」を提示しました。
世界のあらゆる出来事には必ずそれを発生させた原因がある。それゆえ、ある出来事Aにはその原因である出来事Bがある。そしてBもまたこの世界の出来事なのだから原因Cを持つ。以下同様に、原因の原因のそのまた原因の……と、因果連鎖をどこまでも無限にさかのぼっていくことができるはずである。
しかし、世界は無限ではない。因果連鎖はどこかで、それ以上さかのぼれなくなるはずである。するとその因果の遡行の終着点には、何かの結果でもなく、他から一切影響を受けることもなく、つまり、一切の原因を持たずに、かつ世界のすべての出来事を引き起こすことのできる究極的な原因が存在しなければならない。それが不動の動者であり、神である──。こんな議論です。
トレバーは一連の贈与の系譜の中で、極めて特異なポジションを占めています。彼はペイ・フォワードにおける「不動の動者」です。記者のクリスはペイ・フォワードの系譜をさかのぼって一人ひとり取材していきますが、トレバーにたどり着くと、それ以上さかのぼれなくなります。
トレバーには、贈与を起動するだけの「被贈与の負い目」がありません。それでは、贈与のフローを生み出す力が存在しない。それゆえ、力の空白を埋め合わせなければなりません。それこそがトレバーの命だったのです。
この映画で描かれているトレバーには、俗っぽい欲望がありません。人から褒められたい、認められたいといった感情を持ちません。彼にあるのは、「何もかもが最悪」なこの世界を少しでも良きものに変えたいという、あまりにもピュアな動機だけです。ピュアすぎると言ってもいい。
僕はどうしても、そんなトレバーに一種の「聖性」を見てしまいます。負い目とは一種の「罪」によるものです。不当に受け取ってしまったという罪の意識、罪の感覚です。それが僕らに贈与を促します。ですが、トレバーにはその罪がないのです。
罪を背負わない聖なる存在──。それがトレバーなのです。
先ほど、僕は、この映画は贈与の失敗の物語だと述べました。
これまでの議論を通して、もう少し正確な言い方が可能になりました。
贈与の物語でなかったのなら、「ペイ・フォワード」は一体何の物語だったのか。
それは供犠(sacrifice)の物語だったのです。
トレバーは自分の命を犠牲にし、捧げることによって、この世界に良きものを代わりに与えた。そういう物語だったのです。
残念ながら、これは贈与ではありません。供犠という形式の「交換」です。
被贈与という「元手」を持たないトレバーは未来(つまり自分の命)と引き換えに、他者へと善意のパスを渡したのです。
裏を返すと、聖人ならぬ俗人の僕らには、受け取った贈与に気づき、その負い目を引き受け、その負い目に衝き動かされて、また別の人へと返礼としての贈与をつなぐことしかできないのです。
つまり、被贈与の気づきこそがすべての始まりなのです。贈与の流れに参入するにはそれしかありません。
だから、もしトレバーが誰かから何の合理的根拠もなく恩や愛を受け取り、それを痛いほど理解して、こう宣言することができたなら、きっと彼は死なずに済んだはずです。
「ペイ・フォワードは僕が始めたわけじゃない。ペイ・フォワードはずっと続いている」と。
映画「ペイ・フォワード」から得られる教訓、それは「贈与は受け取ることなく開始することはできない」というものでした。そして、これが贈与の原理の一つです。
贈与、偽善、自己犠牲
お金で買えないものが贈与である以上、与えた側はそこに見返りを求めることはできません。もし何らかの対価を求めるのであれば、それは経済学的に計算可能な「交換」となります。
これをあげるから、それをくれ。
これをしてあげるから、それをしてくれ。
これは等価交換であり、計算可能です。
それに対し、贈与は計算不可能なのです。
「私」がこれを「誰か」に与えると意識したとたんに、「与える私」、「受け取る他人」、「与えられるもの」についてなんらかの「計算的思考」が働く。たとえば、私はかわいそうな他人に何かを与えて彼を喜ばせてあげているのだ、そうすることで私はある種の満足を得ているのだと感じる。このとき、人は快楽と満足を事実上は「計算」しているのであり、その瞬間に快楽ないし満足を見返りとして手に入れているのである。
(今村仁司『交易する人間』、114頁)
計算可能な贈与(というのはもはや贈与ではないのですが)には、別の名が与えられています。
いわゆる「偽善」です。
たとえば、ボランティア活動に参加しようと思っている人が往々にして抱くのは、「他人から偽善者だと思われてしまうのではないか」という不安です。
この場合のポイントは、それが自分の未来の利益を見込んでのボランティアなのか、それとも過去の負い目への反対給付なのか、です。
ボランティアをすることで人からよく思われたい、褒められたい、誰かに貢献することで自分が満足したい、という目的が透けて見える行為を、人は偽善と感じるのです。
それは残念ながら贈与ではありません。金銭的ではない形の「交換」です。
また、目上の人に対する態度も、同様に二つに分けられます。
先行する贈与に対する返礼であれば「恩に報いる」「忠義を尽くす」などと呼ばれ、未来の利益のための先行投資であれば「媚を売る」「権力におもねる」となり、同じ振る舞いであってもまったく異なる行為となります。
正確には、そのような自己利益を見込んでの行為なのにもかかわらず本人の主観的には純粋な善意による一方的な贈与であると装うことを、僕らは偽善と呼ぶのです(そして、僕らはその違いを鋭敏に察知し、その相手が信頼できるか否かを瞬時に判定します)。
彼らの合言葉は「お前のことを思って言っているんだよ」という呪いの言葉です。
未来の利益の回収を予定している贈与は贈与ではなく、「渡す」「受け取る」の間に時間差があるただの交換であり、打算にもとづく行為です。なぜ偽善かというと、それは等価交換を贈与だと言い張るからです。それを「自己欺瞞」といいます。
プレヒストリーにもとづく返礼としての贈与であるならば、他人に何を言われようがやりたいようにやればいい。
そして、プレヒストリーなき贈与は必ず疲弊します。トレバー少年がそうなったように、その贈与は悲劇を生みます。それを「自己犠牲」といいます。
多くの人が贈与を恐れる理由はおそらくここにあります。見返りを求めない贈与は自己犠牲ではないのか、と。「誰かのために尽くしたり、献身的になることはたしかに美徳かもしれない。だが、それでは自分がどんどん疲弊していくだけではないのか?」というような恐れです。
ですが、すでに受け取ったものに対する返礼であるのならば、それは自己犠牲にはなりません(この点については第9章で再び論じます)。
それが過去の負い目にもとづくものであるならば、それは正しく贈与になるだけの力があるはずです。
結局、贈与になるか偽善になるか、あるいは自己犠牲になるかは、それ以前に贈与をすでに受け取っているか否かによるのです。
贈与は、受け取ることなく開始することはできない。
贈与は返礼として始まる。
親の愛に関する考察、および「ペイ・フォワード」に示される贈与の構造から見えてくるのは、そのような贈与の力学です。
贈与は必ずプレヒストリーを持つ。
議論の出発点はここにあります。
はじめに 贈与の原理と世界の成り立ち
1章 What Money Can't Buy─「お金で買えないもの」の正体
2章 ギブ&テイクの限界点
3章 贈与が「呪い」になるとき
4章 サンタクロースの正体
5章 僕らは言語ゲームを生きている
6章 「常識を疑え」を疑え
7章 世界と出会い直すための「逸脱的思考」
8章 アンサング・ヒーローが支える日常
9章 贈与のメッセンジャー
おわりに