【客員教授や講師を勤める呉智英さん】 愛知県内のとある私立大学クラスではアルファベット26文字を全部書ける学生がいなかった

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アルファベット26文字を全部書ける大学生はゼロ。九九が
できないばかりか、それを指摘されるとむくれてしまう女子学生。

2010年5月14日 金曜日

◆2010この現実 大学生/上 呉智英さん 5月13日 毎日新聞
http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/life/20100513dde012040091000c.html

◇失われた知的虚栄心--評論家・呉智英さん

 大学は事実上「全入時代」に突入した。学力低下は言うに及ばず、時代の波を受けて、学生気質も様変わりしているようだ。社会の未来を担う大学生たちの、現状はどうなっているのか。【井田純】

 「ひところ、大学生なのに分数ができないとか何とかいう話があったけど、今はもうそんなもんじゃない。すごいことが起きてる」

 よく響く声に、独特の早口。40年前の大学生のころからなじみの街、西池袋にある小さな喫茶店で、呉智英さん(63)が話し始めた。差し出された名刺には、表に「評論家」、裏には複数の大学名と「客員教授」「講師」などの肩書が並んでいる。

 「現代大学生論」を伺うと、まず披露してくれたのは、大学教育の現場で呉さん自身の体験したことだった。

 かつて講義を持っていた愛知県内のある私立大学での話。アルファベット26文字を全部書ける学生はゼロ。九九ができないばかりか、それを指摘されるとむくれてしまう女子学生。99年に刊行された宮崎哲弥さんとの対談集「放談の王道」では、講義中に大学生の携帯電話がしきりに鳴ることを嘆いていた呉さんだが、もうそんな事態ではないらしい。

 講義は「名古屋学」と題した地域文化論。学生には、日付、名前などとともに講義名を記入した出席カードを提出させる。

 「ところが、何と『名古屋』の『屋』を書けない学生がいるんだよね。別の字を当てているんじゃなく、『屋』の途中で終わってて、最後の『土』の部分がない。しかも2人も。名古屋の大学で、名古屋学の授業に、なんで『屋』が書けない学生がいるんだっ!」

 どん、どん、どんどんどん! 勢い込んでたたいた喫茶店のテーブルが揺れ、声のトーンも高くなっていく。

 80年代以降、義務教育課程で進められた「ゆとり教育」。生きる力の育成を掲げて、従来の学習内容が削減された。「ゆとり世代」にはいくつか定義があるが、今年大学を卒業した新社会人は、高校時代に内容を削減した学習指導要領で学んだ「第一世代」といわれる。今、キャンパスで学ぶ大学生たちはその下の、「ゆとり教育」がさらに進んだ世代に重なる。

 「ゆとり教育の影響は、大いにありますよ。ただ、文部官僚の言い分にも一理ある。詰め込み教育はいけない、子どもの個性を尊重しろと言ったのはマスコミで、国民の多くがそれに賛成したじゃないか、と。『公僕である自分たちはそれに従うのが当然だった』と言われれば、その点は確かにその通りだよね」

 変化は学力に関してのみ表れたわけではない。プライベートを重視し、失敗を恐れ、競争を好まない――などと指摘されているゆとり世代の学生気質を、呉さんは「知的虚栄心がなくなった」と表現した。これは、いわゆる「偏差値の高い」大学の学生にも見られる傾向だという。

 「僕らのころは、仲間の間で『この本読んだか』なんて話があると、読んでないと言うのが恥ずかしいから、読んだようなふりして帰りに慌てて買った。それから2、3日で読んで、『あれはつまんない本だ』なんて言って。裏にあるのは知的虚栄心だけど、これが、この10年、20年で学生の間から消えていってる」。70年代ごろまで、大手出版社はこうした知的虚栄心に応えるかのように「世界文学全集」「世界の名著」などのシリーズを競うように刊行していた。今、本格的な全集はほとんど見られず、古典も「超訳」などの、手軽で実用的なスタイルが受けている。隣のテーブルには大学生らしい男女4人組。バイトの話題や、仲間のうわさ話で盛り上がり始めた。

 日本が物質的な豊かさを獲得した結果、社会をどうする、歴史とどうかかわる、というグランドデザインは語られにくくなった。「理想」を求める大きな物語が成立しなくなり、若者の知的エネルギーは、身近な「実務」へと向かった。「実務の時代っていうのは、つまり、金をもうけて何が悪い、っていうことだよね。それも何か寂しくないかい、と思うんだけれども」(後略)

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