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猫のtrilogy


==ねこのはなし==

私は、ねこと呼ばれている。
もちろんあだ名であって「ちゃん」が付くか付かないかの違い程度で周りの人はほとんどがそう呼ぶ。
私自身、猫は好きでも嫌いでもないけれど、このあだ名は嫌いではない
本名のフキエよりは全然いい。
彼はいつもベッドの中で
「お前の腰のラインは、綺麗でしなやかで本当にネコみたいだな」
そう言いながら優しく撫で上げてくれる。
昨夜もそんなことをしながら寝ていた。
のどが乾いて目が覚めた私はキッチンの冷蔵庫までミネラルウォーターを取りに行き食器棚のガラスに映った自分を見た。
冷蔵庫のドアを開けた時の庫内灯に照らされた自分の体はセクシーでも綺麗でもなく、彼がネコと言っている腰を持つ骨と肉と皮の物体がそこにあった。
「ネコね」
急に私は猫が見てみたくなって裸の上にスウェットの上下を着てコートを羽織り、かかとのつぶれたスニーカーを引っ掛けて外に出てみた。
油断しているとまだ時折寒い日がある5月の夜は、それでも春の匂いがしていた。
うちから30mくらい行った丁字路の生垣に猫の集まるところがあるのだけど、普段はただただ通り過ぎるその場所に今は向かってみた。
私が行くと、そこに集まっていたほとんどの猫は姿を消してしまったのだけど、1匹だけ、白と黒の、鼻と口とおなかが白いのだけが私に寄ってきた。
ひとなつこいそのコは小さく鳴きながら、しゃがんで差し出した私の手にそっと近寄って匂いを嗅ぎ頬ずりをしてた。
幸せなのか不幸せなのかわからないそのコと、たぶん幸せだけどもしかしたら不幸せかもしれない私は、月の明かりの下で言葉にならない話をしていて、静かな月の光とまだ暖かくなりきれない空気は私たちを包み込んでくれた。
家に戻った私はまた裸になって彼の寝ているベッドに潜り込んだ。

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==三毛の話==


三毛が今日も通り過ぎていった。
わたしの書斎の窓から見える庭を、いつも同じ三毛猫が通り過ぎて行く。ただの通路なのか、遊び場なのか、彼女の中でうちの庭はどんな位置付けなのかはわからないが、時々寝転がったりもしているので、さほど居心地の悪い場所でもないのだろうとは思う。
わたしと妻は遅くなってからの2人暮らしなので、子供はいない。
わたしは研究者として、妻は画家として、それぞれの職業を名乗りながらも衣食住にはなんとか不自由しない生活を送れている。
子供がいないと歳を取ってから寂しいということを言う者もいるが、私たちは自分たちのことで手いっぱいだったので別段寂しさもなく充実した暮らしを送っていたと思う。
空気のような存在になることもなく、常にお互いの存在を意識し合いながら暮らせてきたことに感謝している。
私の隣には常に妻がいて、妻の隣には常に私がいた。
わたしがこうして書いている書斎の扉の向こう側にある台所では妻がコーヒーを淹れる良い香りが隙間をくぐって漂う。
昼と夕方のちょうど間くらい、太陽が少し黄色くなりやや斜めから差し込む商店街をふたりで散歩するように歩き、気になったところで立ち止まり、また歩き出す。
さほどの出来事も起きないが忘れえぬ日々の連続は、しかし、羽布団のようにしぼむことなくふわりと積み重なってゆく。
意識せずとも同じ通りを歩いていた私たちの日々は、それそのものが平穏を生み出していたのであろう。
何も起きないこと、そのこと自体が特別なことであり、その享受をやり過ごすことほど尊大な思い上がりはないのである。
日向で体を伸ばし横になっている三毛を見ながら、彼女の自由の体現こそが感謝すべき日々なのである。
キッチンのテーブルで私はいつものように妻と向かい合いながらコーヒーを飲む。
そして二人微笑む。
少し面積の小さくなった日向で三毛は、尻尾をぺたんぺたんと動かしている。
2人のテーブルと三毛の日向が永遠であるかのように。

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==黒の話==


もういい加減タバコも不味くなった頃なのでちょうどよかった。
そう思いながら彼はキャメルのパッケージをひねりつぶして捨てた。
明るくなるにはまだしばらくかかるであろう。
まっすぐ歩いているつもりでも電柱にぶつかったりしながら、その度に可笑しさがこみ上げてくる。
昨夜一緒に飲んだ女の子の名前はなんだったか思い出そうとしても思い出せないが、唇の感触と首筋の匂いははっきりと思い出せる。
空虚な満足感で満たされた次の日は、必ず酔いがまわる。

半分の月が薄っすらと照らす道で、彼はポケットに手を突っ込みしゃがみこんで「クロ」と勝手に名前をつけた黒猫へのいつものお土産として、ポケットから出した手のひらにナッツのかけらを乗せて差し出してやった。
「お前もう少し自分の人生考えろよ」
ドラマであればクロがしゃべりだしそうなこの場面でも、この黒猫は何も言わない。
それが現実だから。
小さな舌を使って彼の手のひらのナッツを舐め終わって一度鳴いた黒猫は、そのまま彼の目を見つづけている。
彼も黒猫を見つめる。そしてしばらくすると黒猫はどこかへ消えていく。
ただそれだけ。
人の言葉を操り天使のように黒猫が人生を語ってくれたり、気づかせてくれたりなんてことはない。
上手くいっても失敗してもそれは自分に起きた揺るぎない事実なのだから、時間の流れは巻き戻せることはないし、辛いことの早送りもできるわけがない。
川の流れに逆らって上流に泳ごうとする奴もいれば、そのまま下流に流されていく奴もいる。
「クロはさあ、何考えてんだよ」
彼がそう語りかけても、黒猫は今夜も手のひらのナッツをペロンと舐め終わると、顔を見つめて何度か鳴いて姿を消すだけだ。
今から何か人生を変えるものも思いつくはずもなく、黒猫のように気ままに生きて、時々誰かに助けてもらって、バイトして呼吸してセックスして生きていくのもいいのではないか。
それが「おれらしい」と思いこませ彼は立ち上がってまた歩き出す。
塀の陰から彼を見つめる黒猫の光る目が2つ。
でも黒猫は何も言わない。言うわけがない。


2017/3/20

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