物来って我を照らす

西田幾多郎の「物来って我を照らす」というフレーズは抹香臭い感じがするが、製造業の仕事をしていると常にこの着想に回帰するところがある。この仕事は物理制約に逆らうことができないので、恣意的なアイデアは何の役にも立たないどころか、膨大な不良品を生み出す有害なものでしかない。

機能する機械を製作できたとしても、その先には経済性を追求しなければならない。つまり、投資が回収できない機械はつくってはならないどころか、設計すらしてはならないのだ。様々な制約条件を乗り越えて初めて、そのアイデアは日の目を見る、つまり照らされるのである。

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その一方で、設計主義批判の文脈で西田幾多郎が引用される嫌いがある。平たく言うと、頭で上から目線で設計したものは現実にマッチしないという思想だ。しかし、設計して図面に起こさないと誰も「物」はつくってくれないし、3Dプリンタも3Dデータがないと機能しないのだ。

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恣意的なデタラメでは共有不可能で「物」にならないというわけで、「我(設計)」と「物」は糾える縄のごとく不即不離の関係にあるわけだ。平たく言えば、頭で考えることも手を動かすことも両方大事なのだ。ものづくりの世界はとりわけ物理制約が多く、現地で現物を手に取ってみることが必要となる。

西田は「行為的直観」とも言っているが、「物」の世界はまさに試作してみないと分からないことだらけだ。「物」は情報量が豊富で、3DCADで設計しては3Dプリンタで試作してみて、複数部品を組み上げて動かしてみて初めて分かることが多いのである。まさに「物来って我を照らす」である。

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