人工知能と気候変動、そしてゲシュテル

ハイデガーが提唱した「ゲシュテル(Ge-stell)」という概念は、人工知能の進展とともに本当によくできていると思うようになった。

「ゲシュテル(Ge-stell)」とは日本語では「総駆り立て体制」「集ー立」と訳されることが多いが、「架台」とか「フレーム」という意味合いである。実際に、ハイデガーの英語訳では、"framework"や"enframing"と訳されることが多い。

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ハイデガーは『技術への問い』の中でそれを技術の本質と喝破するが、近代の技術の根底を成す枠組みとか土台という意味である。確かに、それが人々を駆り立てて技術の進展の自己目的化へと向かうのである。

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技術はある目的のための手段だとまことしやかに言われる。

しかし、ハイデガーはそれを否定して、技術は人間の実存そのものであり、そのせいでしばしば見られる技術の自己目的化が導かれるのである。つまり、人々や自然は産業社会に役立つ資源となるように駆り立てられているのであるが、それは技術の在り方が導いているのである。

平たく言えば、人間のために技術があるのではなく、技術のために人間は使われているのである。

これは近年の先鋭的に中国で共産党の指導の下に進展する人工知能において明白である。人々の生活の隅々にまで人工知能による監視は行き届いている。人工知能は携帯電話の端末などを通して、生活の便利には貢献しているが、人々のお金の流れはおろか信用の格付け、そして政治的意見の監視まで行っている。

中国共産党が政治的意志を持って人工知能によって管理された社会を主導している側面も大きいが、その恩恵に浴して人々が安楽を得ていることもまた事実である。それは、「ゲシュテル(Ge-stell)」による駆り立てが人間の実存にマッチする側面があるからだ。

「ゲシュテル(Ge-stell)」「集ー立」でもある。「集ー立」とはハイデガーの言わんとすることをかみ砕いていえば、「見える化」と「収益化」である。つまり、自然を水力発電や太陽発電のエネルギー源として認識することである。

ハイデガーによれば、それは自然の隠ぺいであり、存在の忘却である。彼は、存在の本質を「自然(ピュシス)」と見る。自然を資源として駆り立てることを自然の収奪であり、存在忘却であると見ているのだ。

しかし、文明社会の便利さと快楽を知ってしまった私たちにとっては、それはあまりにもストイックすぎる。私たちは、環境活動家を揶揄する向きがあるが、環境活動家たちですら自然をエネルギー源と見ることは否定しない者もいる。

つまり、ハイデガーは哲学者であるだけでなく過激な環境活動家である一面を持つ。

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しかし、それにもかかわらず、いや過激であるからこそ根源的に私たちの実存を鋭く見抜いているともいえる。現象面だけにとらわれていては本質にたどりつけない。

その本質とは何か?

ハイデガーは私たちの実存の根底を成す「ゲシュテル(Ge-stell)」の転換を問うている。技術とはギリシャにおいては「テクネー」であった。ハイデガーはその原点に返れという。

テクネー(techne)とは古代ギリシャにおいて大切にされていた「制作活動一般に伴う知識や能力」であり、技術(technic)と学芸(art)が分離しない原初の在り方である。

学芸とは現代で言うリベラルアーツの「アーツ」である。技術もまた教養と深く結びついていた。その根源に返れというわけである。

自然を技術によって収益化する資源とみなすのではなく、自然をその本性に従ってあらしめるのがテクネーだというのだ。

テクネーの意義を現代的状況において考える

ハイデガーの物言いは謎めいている。そこで、現代的な状況において具体的に考えてみよう。

私たちは人工知能の進展によって仕事が奪われるのではないかという俗説がある。確かに技術の自己目的化という「ゲシュテル(Ge-stell)」の特質上、費用対効果が見込まれる領域は人工知能は進展していくであろう。

しかし、私たちは知能だけの存在ではない。外ならぬハイデガーの論に従えば、私たちは根源的にはケア的存在である。他者の看護や介護の狭義のケアのみならず、日々の生活の気配り、接待、世間話まで含んだケアである。

人工知能は身体性を伴っていないし、そもそも世界がない。しかし、人間には身体とそれをとりまく世界がある。その点で、人間は自然に根差した生々しい存在である。ハイデガーが人間を世界内存在としているのはそういうことである。

ハイデガーが言う「自然」とはそういう生々しさのことである。見える化と収益化を自己目的とする技術の進展は、そういう生々しさを避けて覆い隠そうとする。ケア的存在である生々しい私たちをも乗っ取ろうとする。

しかし、そういう生々しさを避けると現代の気候変動や人種差別の問題など、もっと生々しいものの逆襲がある。テクネーに返れというのは、そういう生々しさを、再生可能エネルギーという美しいものでテクノクラート的に解決するのではなく、生々しさをそのままに見えるような教養のある技術で対応するということである。

ここから先にハイデガーの言うことは「四方界」とか「放下(Gelassenheit)」とか謎めいてくる。要するに「世界」や「地球」を収奪や管理の対象にするのではなく、個別具体的な「地域」としてその土地が持っている生々しい特性に応じてテクネーによって東洋医学のように対応するという意義のことを言っていると思われるが、本当のことは分からない。

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そこで、最後にハイデガーが典拠とした古代ギリシャの哲学者アリストテレスの技術知(テクネー)について触れて、この記事を終えることとする。

アリストテレスによれば、技術は単なる知的能力ではなく、「学問的かつ経験的普遍的かつ個別的な真理認識の能力」だとされる。特に彼の著書『ニコマコス倫理学』によると、技術は「真の知識(ロゴス)を伴う制作能力」であるという。

ハイデッガーの解釈によると、ここでの「技術」とは「制作による一定の真理解明」(エントベルゲン Entbergen)だと言う。

ハイデガーを介すると途端に謎めいてくるが、要するにその経験を重んじる知性がテクネーには備わっている。経験は個別性を伴い、そして過去の蓄積を重んじる。さらにはその身体や土地、それぞれの事情に応じた解決も必要であろう。

要するに自然の生々しさを避けるのではなく、仮説を脅かす経験的事実を常に尊重して、技術の自己目的化に抗する経験値に根差した技術というのを暫定的にテクネーとしてもいいであろう。私たちになじみのある東洋医学の経験知を重んじる姿勢も理解の助けとなるであろう。

過激なハイデガーに言わせれば、それも生ぬるくて生々しい自然を覆い隠すことに加担する言説だということになるのであるが、そもそもnoteという文明の進化の最果ての地で文章を書くということそのものに矛盾があるので、この辺りでハイデガーにはご容赦願いたい。

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