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「死後無になる」信仰とタナトフォビアについて

※サムネイルは南直哉「語る禅僧」より。(ちくま文庫発行)

人は死後どうなるのかなんて、だれにもわからないはずだが…

「人は死後、無になる。」
こういう考えに出会うことは少なくない。それはリアルで人と会ったときでも、エッセイや創作物の中でも、「私は人間は死んだら無になると考えているので~」と特にそこに疑問を挟まない形で話が進む場合が多々ある。
僕はそのたびにちょっと喉の奥に骨が刺さったような気持ちになる。勘弁してくれと思う。雑な言い方をすると「地雷」である。
そうなる理由を2つにまとめて挙げると、①死ぬのが怖いから②死んだらどうなるかなんて誰も知らないはずなのに「死んだら無になる」が確定事項のようにされているのに違和感があるからとなる。そうなったのにはきっかけがある。

①死ぬのが怖いから


僕自身、死ぬのが怖いと思うようになったのはここ半年くらいだ。とあるきっかけがあってからこの問題が大きくなった。
僕は半年前、あらゆることが上手く行かず、もう解決する手段のなくなった問題にぶつかって苦しんでいた。今更どうしようもないのに何を悩むのか、後になったらそう考えられることだが、とにかくそこには道理も正論も無かった。「もう嫌だ、なにもできない。自分はなんて惨めなんだ」としか考えられなかった。
布団にうずくまって過ごすこと1月、僕は自分で自分の思考を上塗りしようとした。過去の失態に苦しむ自分に対してこう唱えつづけた。「なにも悩む必要はない。どうせ死んだら全て無駄なんだから過去もクソもない。全部終わりだ。全部消えるんだ。死んだら終わりだ。だから今、こうして僕が悩むことも生きることもこれからすることも、全てが無駄だ」
この道理はたちどころに聞いた。さっきまでの悩みは確かに消えた。その代わりなにもかもわからなくなった。「どうせすべてが無に帰すなら、俺はなんのために生きているんだ?」

つくづく単純な人間だと自分でも思う。一つの悩みを消すために、一つ空いた小さな穴をわからなくするために、自分の心にそれより大きい風穴をこじ開けてしまった。この問題は未だ解決を見ておらず、ひとりになるとずっと考えている。「何もかも無駄だ」という強迫観念がかえって生きることを圧迫しているのだ。こういう状態をタナトフォビア(死恐怖症)と言うのだろうか。

おそらくこの手の「死んだら終わりだ」という考え方は、「だから日々を大切に生きよう」と決意することとセットで語られるべき思想なのだと思うが、自分の抑鬱をちゃんとコントロールできず生きることも死ぬこともできない人間には劇薬でしかない。
上島光著「竜ちゃんのばかやろう」という本がある。
これはダチョウ倶楽部の上島竜兵氏の奥様が彼の死後書いた本で、その中で生前の竜兵氏が苦しんでいたことが明かされている。
死後を信じる光氏に対して生前、竜兵氏は「違う、死んだら無になるんだ。無になった方が良いよ。生きている方がおかしい」と語ったことが書かれている。別の考えを持っている光氏に対して「そうではない」と強く否定する様は正直怖かったし、彼がその後選んでしまった自死のことを思うとこの言葉の中にどんな思いがあったかを察せられ、辛い。

何が言いたいかというと、「死んだら無になる」というのは自明の理というより考え方の一つであって、ほかの考えを強く否定してまで言うことではないということと、この考え方は日々をその分大切に生きようとして生きられる人以外が採用すると自分で自分を追い詰めるのでないかということだ。僕も今うっかり自分でその扉を開けてしまった一人である。


「死んだら無になる」が確定事項のようにされているのに違和感があるから

さて、のっぴきならない状態になった僕はとりあえず本を読み漁った。元々思い込みの強い性格なのはわかっていたので、自分でワクチンを作って脳に入れないと、自分で作った思い込みで死ぬことになると思ったからだ。ちょうど時期的にも5月にコミティアを終えて、自分の中の創作が一区切りついてしまった。積極的に生きている動機がもはやなかったのである。「あっじゃあもう終わりでいいですね?」と死神が肩に手を置いているのを感じた。

インターネットは見ない方が良い。無限に時間を失ってしまう。それよりは本が良い。誰かが生きた証であり、そもそもこんな普遍的なこと、だれかしかが先行して考えているはずだ…

恐らく20冊くらい本を読み漁ったと思う。そうしてたどり着いたのが仏教であった。
僕はそもそも仏教には親近感がある。祖母がお経を自分で読める人なので、真面目に聞かなければなるまいと子供ながらに思い祖母の読経を聴いていた。

さて、その中で特に良いと感じられたのは曹洞宗、南直哉氏の本だった。
ご高名な僧侶らしく、数々の著書がある。1990年代の地下鉄サリン事件から2022年の統一教会問題まで、長年活躍する中でその時々のトピックに真剣に向き合い続け、今も活躍されている方だ。
幼少期に重度の喘息に悩まされ、そこから「死とは何か。そもそもこうして生きている私とはなにか」と考え続け、出家したらしい。

僕がこの人の本で通底して好きなのは、「わからんもんはわからん」と言い切るところである。釈尊が死後の世界や霊魂について弟子に何度問われても答えなかったというエピソードを引用し、「誰かの死を観測することは有っても自分の死は実際死ぬまで観測できないんだから、どうなるかなんて今推測を立てても机上の空論じゃない?」というようなことを都度語っている。自分の中の結論を「これが答えだ!」と言い切ってしまう人たちより、「まずもって検証しようがないのでわからん」と言う方が誠実だと僕は思う。(※この紹介は僕がかなり要約したものので、ちゃんとした内容は原典にふれてみてほしい)


「わからんもんはわからん」という姿勢は解剖医の養老孟司氏も近い。複数の著書の中で彼は「科学がなにかを完全に把握できると思ってしまうのは幻想、わずかな範囲のことしか本当はわかっていないのに全部わかったみたいに振舞って、むしろその狭い範囲に自分を合わせに行くような考えが現代人には多い」というような現代批判をしている。

僧侶の玄侑宗久との対談本「脳と魂」の中で、養老氏が魂のありかについて問われる場面がある。そこで養老氏はその問いを肯定する。「ある」というよりは「あってもおかしくない」「今わかっていることだけで科学が生命のすべてを確定できるとは到底思わない」というような言い方で。


「ちゃんとした科学者は、科学が所詮仮定の話を現実に当てはめている作業だって知ってるんですよ。…その仮定のものさしと現実を混同するようなやつが自然も人もコントロールできると言い出すんだ、患者を目の前にしてもカルテしか見ないような…」

養老孟司「脳と魂」の一節を要約

こうした科学批判を養老氏は度々論じている。つまり「わかりようがないもの」を存在しないものとしてはいけないとしているのだ。
これは死後=無とする考えの人の中でメジャーな、「意識は脳の産物であり、脳はしょせんタンパク質なんだから、それが喪失したら全て消えるのは当然」というような考え方にも当てはまる。確かにそれは一理あるように見えるが、あくまで今我々が科学の箱の中で分かっている話の中で仮定しているだけだ。

分かった気になってはいけない、人間にコントロールできることはわずかだ。養老氏は繰り返しその警鐘を鳴らす。

恐怖症は克服していないが、なにが気に入らなかったのかはわかった


それで、こうして沢山の本を読んであれやこれやと引用して、自分の中の問題は解決したのかね?という話になる。そもそもこれは誰かに出された宿題ではなく自分で自分を追い詰めてしまったからなんとかしなければ、という自縄自縛だ。「死=無」の死生観の人を非難しているわけではないのは留意してほしい。ただ僕が自分で掘った落とし穴に自分から飛び込んだだけだ。

結論から言うとこの苦しさからはまだ脱していない。朝起きるたびに「うわ、どうしよ…」と思う。自分が今生きていることとそれでもそのうち死ぬことにげっそりする。死生観は付け焼刃の読書でなんとかできるほど軽い問題ではない。
ただわかったのは、どうやらこの問題について非常に悩んで真剣に考えていた先人が沢山いたということ。その事実だけでも多少は救われるものがある。こんな途方もない話を悩んでいるのは僕一人ではなかったし、出家してまでこの命題に挑み続けることを選んだ人もいるのだと。
もう一つは、わかりようがないものは「わからん、判断しようがない」で留保するほうが誠実で在るということ。僕が「死んだら無でしょ、当たり前でしょ、てかそれ以外ある?」と言う人に対して、なにを苛立っていたのかが分かった。「その結論が絶対正しいという態度が気に入らない」と思っていたのだ。
(これは誰かにそう言われたというより、何冊も本を読み漁る中でそういう態度の本に出合ってしまったというだけの話である。合わない本も世の中にはある)
文字通り次元が違う命題に対して今答えをだすことはできまい。「反論無いなら俺の勝ちだが?」感を勝手に感じていたのかもしれない。
故に、一番誠実な答えは「現状ではわかりようがないので、わかりません」なのだと思う。

とりあえず今回得られたこととしては、「お坊さんの書く本は面白い、特に曹洞宗」「図書館って乱読したいとき便利!」ということでしょうか…
あとその気になれば大量に活字の本を読むことがまだ自分にできることがわかったのも良かった。これはちゃんとキープしておきたい。
それと一日15分、坐禅をするようになった。散々頭の中で悩みを広げて苦しんでいるときは、下手にネットサーフィンなんかに繰り出すよりは事故処理したほうが良い。なるほどこれが煩悩か、そしてそれへの対処法が瞑想なのねと、さすがに仏教はよくできてんなと思った。

長々と書いた割に締まらないオチだけど、「わからないものはわからないで終わらせる方が誠実」ということで、ここはひとつ…よろしくしゃす…




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