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「天気の子」と社会が守るべき子供たちについて

「天気の子」、地上波で放映されましたね。多くの人が初めて触れたこと、コロナウイルスという猛威が現実で巻き起こっていること、いろんなことがきっかけになって沢山の人が話題にせずにはいられないという様子でした。

その中で改めて認識したのが、天気の子が問いかけているのは「社会(≒大人)と子供の関係」だということ。そしてそこの感覚が作り手の価値観と異なっている人は受け入れられないのではないかと思った次第です。

受け入れられないことが悪とか変とかそういう話ではないのは明記しときます。僕も苦手な映画、まして自分が苦手なのに評価されてる映画とかあるし。

で、Twitterで書き散らしたことの再投稿にはなりますが、ちょっと書いていきます。僕自身の社会観…というか、「自助・共助・公助」という観念のとらえ方についてと、そこから始まる「天気の子」の、子供たちの選択の話。

「自助・共助」は必ず限界がある

人が人を助けるのは限界がある。

僕の考えでは、人間が個人でできることには限界があります。誰かを助けようとしているはずが、いつのまにか助けている側が共倒れになってしまうということは、介護や精神病のケアなどの話でよく報道にも挙がっていますね。僕も経験があります。現在劇場で公開中の「ジョゼと虎と魚たち」も、そこの問題がちゃんと描かれていたのはよかったです。助けようとした人が損失を被り未来を閉ざされていく、その中でお互いの関係が悪くなってしまう。

これは誰が悪いとかではなく、普遍的にそういうものなんだと思います。人は自分の生活をどうにかするだけで手一杯な場合が殆どなので、ひとりが二人分の体重を抱え込むことは不可能なんですね。

だから公…つまり自治体だったり国だったりが介入して、助けなければいけない。そのための社会、国家、税金だと思っています。

世界を救うチートアイテム「天気の巫女」

人が人を救うのは限界がある、人を社会的困窮から救い出せるのは社会だけだ。そう考えたときに、「社会全部を救えてしまう力を与えられた少女が大勢を救い出した後自己を犠牲にして死ぬ」というのは、たとえ少女自身が納得してても承服できないんですね。社会は少年少女、力を持たないものを守るのが役目なので。

作中の陽菜と帆高は、弱者です。18歳未満で、守られるべきなのに保護者を失ったり暴力を振るわれているものたちです。だから社会は彼らを救わなければならない義務を負っている。それはきれいごとだけではなくて、単純にこれから彼らが大人になり社会の構成員になっていくからでもあります。

児童相談所の人とか警察の人とかが出てくるのは、陽菜たちを守ろうとしている社会の取り組みだと思います。物語の終盤、あれだけのことをした帆高が無事高校を卒業し東京の大学に進学できていることからも、その社会が正しく機能したことがわかります。(リーゼントの警官が冷血で無理解な様子で描かれているのに、最後の最後で「撃たせないでくれよ…!」って言ってるのいいよね)その取り組みでは「天気の巫女」という超常現象、それによって陽菜さんが人生を奪われるという事象に対応できなかっただけで。

はい、ここまでが「陽菜たちは守られなければいけない、弱者を守ることが社会の役目だから」は説明できたと思うんですけども。

ここに「でもこの女の子を見殺しにすれば、あなたたち社会が抱えているデカイ問題が一個解決しますよ」という誘惑が為されてしまったわけです。これが「天気の巫女」の本質的な問題。

「天気の巫女」はチートアイテムです。彼女一人犠牲にすれば、社会はこの荒れ狂う天候問題を考えなくていい。そしてこの問題に対して、陽菜は「私が犠牲になれば皆助かるんだよね」という選択で、自分で自分を供物にしてしまった。

大人たちはそんなことが起きたことすらわかっていない。終盤帆高を取り押さえた警官たちは何が起きてるのか共有されていないし、共有されたとしても信じない。

唯一事態を理解している須賀さんは、「ひと一人犠牲になるくらいでこの天気がなんとかなるなら万々歳って、だれでも思うだろ」と言ってしまっている。

須賀さんを作中で「大人(≒社会)」を象徴する人物とするならば、あのシーンは「大人が社会の抱える問題を解決するために、自分の役割の一つである『弱者の保護』を切り捨てることを承諾してしまった」シーンだと言えます。

それだけの魅力が、その誘惑にはあったから。

「子供の自由意志による選択」の危うさ

陽菜は自分の力で天気が晴れ、多くの人が喜んでいることを、わがことのように喜びます。そして「帆高はこの雨がやんでほしいと思う?」と問い、「うん」という答えを聞いてしまう。

自分の命一つで世界が、自分の大切な人たちが救われるならという選択を、彼女は選んでしまった。そして天上の世界で一人になり、後悔し、苦しむ。

これを、「彼女自身が納得したことだから」「自己責任」とか、絶対に言ってはいけないと思っています。だってこれは、彼女が自分の意志で選んだこととは言えないから。

まだ自活できていない子供たちのする選択って、どうしても経験知が大人より少ない分間違うリスクが高い、それは社会が承服していなきゃいけないことなんですよ。その意味で陽菜は両親がいない、弟を守らなければならないという問題を抱えたうえで行動を選択している。それは自由意志とはいえない。

「これが私の役目なんだ」と納得したつもりでいた彼女が天上に連れ去られて独りになったときに泣きじゃくるシーン、あそこ本当に胸が痛いんですけど、多分彼女が自分の選択の意味を本当に理解したのってあそこだと思ってて。
望んでもいないのに与えられた力に使命を見出して、誰かのために自分の人生を蔑ろにしてしまった、取り返しのつかない選択をしたと、わかってしまった。しかも彼女は天気の巫女に選ばれた時点で、本当は選択肢すらなく神隠しに遭うことが決められてたんですよね。

だから帆高は怒り、泣き、走るんです。彼女には何も許されていなかった、彼女は搾取され、奪われ、あまつさえその状況でお仕着せられた救世主の羽衣を「これが私の役目だ」と受け入れたから。「たかが15歳の少女になにもかも押し付けて、押し付けていることにすら気づかないお前らをはねのけて、俺はあの子を救うんだ」と叫んだ。
そんなことをしたら大変なことになる、お前が将来を棒に振るんだという大人たちの言葉が届かないのは、偉そうなことを言って束縛しようとする大人たちが結局陽菜さんを守れなかったことへの反発もあるし、なにより陽菜が自分よりはるかに重いものを犠牲にしてるのを知ってるからでしょう。

帆高もまた故郷の社会に守られなかった少年だった。そんな彼の決死の選択は、ある意味で究極の「自助」だったかもしれません。誰にも陽菜さんを救うことはできない、救おうとすらしないというなら、もう何もかもどうなっても良い。すべてをなげうって、自分の力で、大切なあの子を救うんだ。

警察に二人暮らしをとがめられたとき、陽菜は「誰にも迷惑かけてないじゃないですか」と抵抗した。社会が自分たちを助けてくれることを期待していないから出た言葉。それは自分が受けている暴力から逃れるには島の外に出るしかないと思った帆高と、きっと似た気持ちだったんじゃないか。

その果ての彼の選択が、あのラストシーンだったわけです。

そして帆高は社会の一員になり、世界は続いていく

18歳になった帆高が須賀と再会した時、須賀は彼を許します。許すというより、「お前のせいでもなんでもない、気にするな」と言います。もとの家を失い新居に住むおばあさんも「もともとあの辺りは海だったからね」と、事態を受け入れる言葉を彼に伝えます。この辺良かったですね、ほっとしました。

それでも、力を失ってなお祈り続ける陽菜を見た彼が「僕たちがこれを選んだんだ」と、子供だった自分の選択の意味を改めて理解するのも本当に良かった。
一瞬のカットですが、彼は進路に農工大を選んだことがわかります。きっとこれからは社会を構築する大人側に回るのでしょう。

陽菜が天気の巫女になる前からあの東京には雨が降り続いていた。これからあの世界の大人たちは、15歳の少女を犠牲にするという反則のようなチートアイテムを使わずに、変容し牙をむく世界に立ち向かっていく。

それがとても、うれしいんです。

最後に

最後にこの曲を貼っておきます。

僕にとって天気の子は、「希望に満ちたひかり」でした。

この映画の英題は「Weathering with you」、意訳すれば「あなたとともに乗り越えていく」。どうか皆、元気で。困難な時代ですが、生きていきましょう。

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