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阿目虎南さん・谷口舞さん「hiina」(映像:コン・シデンさん)@岩槻人形博物館

岩槻は人形で有名らしい、私は物を知らないので初耳だったが、阿目さん見に人形博物館行ってくるよ、い…と言いかけた私に先んじて、岩槻、と父は言った。
岩槻駅から博物館へ歩く、その道のりにも2、3は人形屋さんがあって、ルートを変えた帰り道でも同じくらいお店があった、途中の大宮駅構内でも、人形の岩槻、と博物館の目玉作品らしい犬筥(の複製)が2体仲良く並んでおり、その後ろには盆栽が置かれていた(大宮だから、だろうか)。

阿目さんと谷口さんも並んでいた、会場である人形博物館・会議室には庭に面した大きな窓があって、緞帳のようにゆっくり上がったブラインドの向こうには襦袢?を羽織ったふたりが、石と生け垣と、散乱した着物を借景に、見得を切るように立っていて、時折ピクッピクッと動いていてるのが目覚める間際の人形のようだ。
ぎこちなく“目覚めた”ふたりは同期するように動く、右足を腰のあたりまで上げ、そのままゆっくりと下ろすものの右足が重さに耐えきれなかったみたいに倒れこんだり、また別のシーン、吊られたように上がった右手が、その“糸”を切られたみたいに落ちていったりする。
さらに別のシーンでは、位置を入れ替えた阿目さん(最初は向かって右で、途中から谷口さんの後ろを通って左側に移った)が谷口さんに寄りかかったかと思うと今度は谷口さんが阿目さんに寄りかかる、こうした応酬は、あたかも子供が人形を持ってガシガシとぶつけて遊ぶみたいだ、ふたりで遊んでいるのかもしれないし、1体ずつ持って両手で遊んでいるのかもしれない。
しかしふたりははたとこちらを見ると、ゆっくり腰を屈めつつ近づいて窓に手をやるが寸前で止めてはじき返されたみたいによろめく、この時にはすでにブラインドが閉まりはじめて、下がったふたりもさらに腰を屈めていく、ブラインドが足首のあたりまで来た時にはスッと立ち上がって、室内に差していた光が細くなって消えた。

今度は外が会場で、観客は誘導されて博物館正面に出る、L字に通路が走る目の前は駐車場だが真ん中には“舞台”があって、出入口あたりから見ると奥に向かって細長い。阿目さんと谷口さんが走り出て飛び乗った舞台、その“下手”手前と“上手”奥にはしゃがんだ人ぐらいの石が一つずつあり、中央奥には能舞台の松ではないが木が一本植わっていて、奥に止まった車のドアウィンドウの反射、その眩さがをふたりを越えてまっすぐ届く。
ふたりは飛び乗ったその素早さのままくるくると舞台を駆け巡って、襦袢の上にまとった着物が、腰から垂れ落ちた帯が、動きの余韻のようにはためく、駆け寄った谷口さんを阿目さんはお姫様抱っこの要領で受け止めてくるくるとその勢いのまま回る。その後はたしかだんだんゆっくりとした動きに戻っていって、中央に谷口さんを残し、阿目さんは舞台の縁を、下手の奥から手前へ、そしてL字に上手へと徐々に速度を増して移動して中央に戻ると、ふたりはこちらへとじりじり前進しはじめて、谷口さんは手前の石の傍らにしゃがんだが、同じくしゃがんで見ていた私には阿目さんは石の向こうに隠れてしまってよく見えない…というところでふたりは舞台から飛び降りる。
着地してそのまま足早に博物館出入口へと、阿目さんはL字に敷かれた玉砂利を越えて、谷口さんはそこに設えられた飛び石の上を通って向かうその後ろ姿を観客はまたのろのろと追う、戻ってきた、ブラインドの下ろされた会議室の中は暗いが、中央にはさっきからずっと光り輝くものがあって、それはコン・シデンさんの《丸-a circle》だった。

円形のスクリーンの傍らには2本の黒い支柱が立っていて、鳥居の向こうに覗く茅の輪みたいだ、吊られているのだろうけれど、その糸は見えないから浮いているように見える。そこにはまず、スクリーンに対して一回り小さい青い円が浮かんで、青い円を形作る小さな“欠片”たちが万華鏡のようにゆるく対流している、かなりうろ覚えだがたしか細胞分裂の時に、染色体が両極の中心体、そこから伸びる紡錘糸に引かれて分けられる…みたいな話があったけれど、そうして細胞分裂が始まった直後の、おそらくもっとも混沌としているだろう状態を見ているようだ。
映像は4、5回暗転して、その度に少しずつ赤みを増していく、途中までは青さと拮抗していたが最後の方では真っ赤で、スクリーンに対してもほぼ同じ大きさ…というより少しはみ出ていて奥のブラインドにも(太陽の)コロナみたいに揺らめいている、遠くで見ると小さな色の欠片がうねうねと蠢いているようだが、近くで見ると2、3層の映像が重なっていて、それぞれが違った速度で回っている、その中でも白く明るいところは(植物の)“ふ”みたいな感じで、色が飛んでいて穴のようだ。
細胞のようでもあり、星のようでもある、この映像は10分くらいだったと思うけれど、むしろそれ以上のはるかに長い時間を圧縮したようで、数度の暗転もその印象を強める、さらに映像には音も付いていて(阿目さんと谷口さんによる作曲らしい)、その響きは以前音源で聞いた流氷の擦れる音のようだ。
当然ながら人形は、人間を模して造られている、今回のパフォーマンスはその人形をさらに人が模倣しなおす営みでもあるし、コン・シデンさんの映像も、元々は岩槻での滞在制作中に撮影した画像(地に伏す赤茶けた植物、地面の小石、鉄塔…)をPC上で“溶かして”再構成したものらしく、それもまた風景を模している。音楽も、特に意識してはいないだろうけど自然の音を連想させるし、そもそも芸術は、自然、というより外界を模す、映すことから始まったのだろう、そして外界を映せばそこには内界が、心のありようがまた反映されているはずだし、造られたもの、特に人形には、新たに“人格”が、存在が宿る。

窓ガラスに“舞台”、玉砂利…とここまではパフォーマーと観客を隔てる壁があったがここに至ってはもうない、映像の投影されたスクリーンはあるが、着物を脱いだ白塗りの身体はその境界を容易に突破してしまって、阿目さんはスクリーンの横から白い腕を伸ばすと映像に浸った指先から赤と青に染まっていく、スクリーンの前に来た阿目さんの上半身には、肋骨の丸みをなぞるように映像が流れて、滝壺に吸い込まれるように身体の裏側へと消えていく、スクリーンには本人の影が映り、その後ろ、スクリーン越しには谷口さんが白く透けて見える、三位一体で阿修羅みたいだ。
阿目さんはゆっくりとプロジェクターの方へ前進して、赤く浮き彫りになった部分が胸像から首像へとだんだん狭まっていく(反対に身体はどんどん暗がりに沈んでいく)、そしてゆっくりと後退する頃には谷口さんがスクリーンをくぐって前に来ていて、入れ替わりでプロジェクターへ近づいていく。
谷口さんの表情は喜悦に満ちているようで、ここまでも表情が豊かだ、外の舞台で石に腰掛け、手足を宙に伸ばした時も愉しさが表れていた。

“第1幕”では、ガラス越しなのもあいまって平面的な印象で、ふたりが立ち位置を入れ替える時とか、最後にこちらへと前進してガラスに手をやる時くらいしか前後の動きはなかったし、外の“第2幕”では舞台上を縦横に駆け巡っていたけれど、玉砂利を挟んだL字の通路越しに見るというその距離が奥行きを曖昧にしていた、打って変わって“第3幕”ではスクリーンを挟んで前後の動きが強調されていて、なにより近い。
当然ながら距離感によって見かけの大きさも変わって、第2幕に移ると急にふたりが小さくなったみたいに感じるのは周りの建物との対比でもある、そこから第3幕へ移ると今度はぐぐっと大きくなったみたいだが、前述のように第3幕では距離感自体が変わるからズームとズームアウトを目まぐるしく繰り返しているみたいで、それは、スクリーンから離せば映像が大きく投影されるし、近づければ小さく映る…という(単純化した)プロジェクターの仕掛けとも通ずる、起源をさかのぼれば、きっと影絵遊びとかに行きつくのだろう。

そのすぐ後か、暫く経った後か、スクリーンを境に手前に谷口さん、奥に阿目さんがいて、ふたりは向かい合ってスクリーン越しに手をかざし合う、そのまま時計回りにスライドしていって、スクリーンの横から谷口さんは右手を、阿目さんは左手を伸ばして、指先から腕を通って肩、背中(同時に顔)…と染まっていくその染まり方が、ふたりの体格の差を浮き彫りにしていって、距離による(見かけの)大きさの変化は、ここに至って個々の身体の大きさに収斂していく、そのまま手を、薬指と小指を交差させたかと思うとまた離し、一番はじめの、見得を切ったような登場を彷彿とさせる立ち姿をしたがその時よりも今の方がふたりは互いに近い。
映像ももう赤みが極まっていて、暗がりに身を浸すようにしゃがんだふたりはまた立ち上がると、腕をまっすぐV字にした阿目さんは、同じく腕を突き出した谷口さんの脇に腕を差し入れるが無機質で、遊び終わって放り投げられた人形がたまたま折り重なったようだ、ブラインドがすでに上がり始めていて、自然光が差し込むと共に映像も薄まって、その光の中で二人は徐々に離れる。

…13時の部はここで終わって、15時の回まで博物館の展示を見る、常設展では人形の作り方が紹介されていて、桐の木の粉に生麩糊(しょうふのり)を混ぜて作った生地、それを型に詰めて成形された頭には真っ先にガラスの眼が載せられた(接着と、白目の意味もあるのか、眼窩には胡粉?が塗られている)。その上から、眼もろとも、胡粉で何層も艶やかに塗り重ねられていって(その層と層の間に、「置き上げ」という、鼻や耳のボリュームを出す工程が挟まれる)、肌が仕上がった後に、改めて小刀で目が開かれる…

という一連の過程を知ってから15時の回を見る。すると終盤の第3幕で、スクリーンの向こうから阿目さんと谷口さんが現れるシーンは、改めて肌に切れ込みが入れられて目が現れることとも似ていて、金魚すくいの“ポイ”みたいに白いスクリーンは、雪のような人形の肌とも通ずる(そもそも白塗りのふたりはもっと直截的に人形だ)。そして真正面に置かれたカメラ、そこに記録された映像をもし見返したら、かがんだ阿目さんの後ろからいきなり谷口さんが現れたように見えるはずで、それはまばたきにも近しい。

そこから、スクリーンの後ろに控えた谷口さんは、だんだんとシルエットを大きくしながら近づいてきて、スクリーンの真裏で手を振る。阿目さんはスクリーンの前で腰から脇腹、肋骨~肩~頭と回していて、それは前にワークショップで、丹田から出た球が、身体の内側を転がり上がっていくイメージでやるよう教えてもらった動きだ、だからこそ、その動きは身体の内側を、無いはずの球を幻視させる。

人形(特にお雛様のような衣装着人形)もそうで、着物から伸びた腕は白いく華奢だが着物の中は針金のままで、肉付けに綿が入れられているだけだ、しかし私(たち)はその内部にふくよかな腕を見る。そうして着付けた人形の腕はそのままではまっすぐでいかにも人形っぽい(先の13時の回のラスト、ピンと伸ばしたふたりの両腕が人形を模していたように)、だから関節のあたりに金具を添えて、職人はグッと腕を折る、これを「振付」と言うらしい。

さかのぼって15時の回、第2幕、舞台に上がった阿目さんは谷口さんを後ろから抱きとめる、谷口さんは動きを止め、阿目さんは二人羽織みたいに谷口さんの腕を身体を動かして、あたかも“振付”しているみたいだ、そもそもこのパフォーマンスの振付も阿目さんと谷口さんがおふたりでやっていて、そこにはニ重の意味がある、すなわちダンスの振付が、人形制作における「振付」と重なることと、そして振り付けた作品を自分たちで踊っているということで、特に後者のメタ的な、批評的なまなざしは先に上演された阿目さんのソロパフォーマンス「イノコヅチ」と通ずる。

「イノコヅチ」と通ずるのはそれだけでなく、観客を室内から室外、そしてまた室内へと誘導する構造、そこに伴う日常性、たとえば「次は博物館入口が舞台なので移動お願いしまーす」と飯島さんがアナウンスしたり、という“夾雑物”がはいりこむことも通じていて、「イノコヅチ」では4時間のパフォーマンスの内、30分の“休憩”が2回差しはさまれた。そしてその中断は、コン・シデンさんの作品に時折挿入される暗転とも重なる。

さらにさかのぼって第1幕、冒頭、ブラインドが上がり登場したふたりは端正な人形のような静かな躍動感を湛えていて、この瞬間がある意味一番“人形っぽい”、第3幕のスクリーンから、目を入れる、頭を作るという人形作りの第1段階が、第2幕では「振付」という、衣装着人形の第2段階がそれぞれ連想されたことを踏まえると、このパフォーマンスでは人形の一生を逆再生しているのかもしれない、それはコン・シデンさんの映像が生滅を、死と再生を円環で表していることとも通じて、再び訪れたラスト、V字の両手を組み合わせたふたりは、今度は映像と同じく時計回りにスライドして、(しゃがんだ)谷口さんが小さな“V”を、立った阿目さんがその後ろで大きな“V”を描く、そのシーンは、15時の回、第1幕、バッと手を挙げたふたりが一瞬描いた二重のVと繋がって、このパフォーマンスも映像と同様に、円環を描き続けるのかもしれない、上演される度に軌跡を変えながらも。

…同じく埼玉のプラザノース、そこで開催されている展示(これもさいたま国際芸術祭の一環だ)にハシゴするためニューシャトルに乗ると、高架を走る車窓から見おろす街並みは精巧な模型みたいだ。しばらく後、イヤホンから流れてきたのは冨田勲の「イーハトーヴ交響曲」で、ここでは初音ミクがソリストを務めている、人を模した、それでいて人を超えた声が、人と一緒に“種山ヶ原の、雲の中で刈った草は…”と歌っていた。

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