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山下拓也さん「愛、嫉妬、別れ (ムンクやカニエをサンプリングして)」by TALION GALLERY @CADAN有楽町

畳を剥がし、床板を剥がし、擦り付けた支持体を剥がし…と、制作の至るところに付きまとう「剥がす」行為は、せっかく傷を覆い始めた瘡蓋に爪を突き立て剥がしてしまうこと、その痛々しさと似て、しっかりと打ち込んだ鑿をひねり、床の "表皮" を剥ぎ取る手首の動きが、突き刺したナイフをひねり、とどめを刺す所作にも見える。

しかし、剥がれ落ちた皮膚片じみた木片を払い清めること、剥き出しになった版へ布を押し当て、そこに染み込んだ痕跡を確認することは、患部を浄め、ガーゼを当てては交換し、治り具合を診断する手当ての作法とも近しい。
床を抉り、傷として輪郭を描くことも(おそらく) 出来たはずだけれど、あえて凸版で表されていることも、傷が治る過程で盛り上がった肉を連想させて、傷つくことと、その傷が癒えていくことが、表裏一体のものとして扱われていると思う。
床の木目や筋、傷が輪郭上に留められていることも、その肉の下で蠢く、まだ塞がりきっていない傷を透かして見るかのよう。

版は刷られる度に "汚れて"、そこから生まれる《DMちゃん》も、だんだんと白い肌に "擦り傷" を増やしていく。そのことも、生々しい傷が徐々に風化していくこと、記憶も磨り減り、痛みも鈍化していくことと繋がっていて、壁に並置された《PLAY!》と《Player》において、前者が、黒々と鮮烈な "叫び" を、マーブル模様の中でもなお留めているのに対して、墨色の海に沈みきった後者が一周回っておだやかですらあることと通ずる気がする。

《PLAY!》の版木が《Player》として隣り合って展示されているのに対し、床に彫られた《DMちゃん》は、その写し絵だけが展示されていて、"本体" は映像の中でしか見ることが出来ない。そのことは別離を連想させて、「剥がす」ことに含まれる、別れ/分かれの要素とも呼応している気がする。
しかし、ギャラリー中央に吊るされた《DMちゃん》は、その巨大さに床の狭さを逆説的に刻んでいて、モニターの正面に立つと、《DMちゃん》とギャラリー壁面に挟まれた圧迫感が、遠く隔たれた室内を連想させる。直に見ることはできずとも、思いを馳せることは出来て、それは、分かれたもの同士を繋ぐ縁となり得るかも知れない。

見えないもの、触れられないものに想像で近づくことは、アクリルケースの作品群とも通じて、《DMちゃん》の豊かな髪のような重なりに隠された、刷られるごとに少しずつ変容していくイメージを想像することは、反芻される度に色合いを変える不安や嫉妬を想像することでもある。
歌詞として昇華された思いが、一枚一枚剥き出しの状態にも耐えられる強度を得た一方で、アクリルケースに、額縁に納められた言葉はまだ剥がすには柔らかくて、その中で固まり癒えるのを待っているのかも知れない。

そういえば、CADANもアクリルケースと同じく (ほぼ) 四角の空間で、一枚だけ吊るされた《DMちゃん》の前後には、おびただしい数の見えない《DMちゃん》が重ね合わされ、封じ込められているのかも知れない。

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