12月7日
パンケーキを焼いた。最近はココナッツオイルにココアパウダーと蜂蜜を混ぜて固めた生チョコもどきを冷蔵庫に常備して口さみしいときにひとかけふたかけ食べるというのが常なのだけど、ここ一週間ほどそれを作ることさえ億劫で、だけどチョコレート的なものが欲しくなりココアのパンケーキでも焼くかと思い、だけど冷蔵庫にたくさんのにんじんがあることを思い出し、結局すり下ろしたにんじんとスパイスでキャロットケーキ風のパンケーキになった。
きのうの日記を更新した少しあとに読み返してみたらそのつまらなさにちょっとびっくりした。最近はあまり日記を書く気にならないこともあり、でもそれでも何となく書いたり書かなかったりといった様子で、きのうはなんていうか心のないまま何となく書いたので、それはこんな文章にもなるわ、という感じ。誰に対してかわからない申し訳なさを感じた。
きのう植本一子さんのかなわないを家に帰ってから一気に読み、残りのほんの少しを朝起きて読み終えた。なんてなんてことのない文章なんだろうと、読みはじめたときには思ったけれど、ちっともなんてことなくなんてなかった。終わりの方に、自分のことが大嫌いでその自己肯定感の低さは母から愛情をもらえなかったことが原因だとある“先生”に言われるくだりがあり、「まともな育て方をされていたらこんな風に自己肯定感の低い人間にはならないらしい」(いま手元に本がないので言い回しは違うと思う、あとで直します)と書かれており、それがぴたっと自分と重なって泣いてしまった。
わたしは生きていることがずっとというか年々しんどく辛く苦しいのでその理由についてはこの数年割とまじめに向き合って考えている。だから自分の圧倒的な自己肯定感の低さは十分に自覚しているつもりだし、そしてその原因の大きなひとつとして思い至ったのが母に褒めてもらえなかった、認めてもらえなかった、ということだった。
先生は植本さんにお母さんを恨みなさい、そうしなければ先はありません、と言った。わたしは母のことが嫌いではないし実際仲も悪くはないし、可愛いひとだなと思っているので恨むのはとても難しいことのように思えた。お母さんはお母さんのお母さんに愛情をもらえなかった、だから一子さんもお母さんに愛情をもらえなかったのですよ、とも書かれていた。母も祖母に褒めてもらえなかったのだろうか。
ここ数日は体に力が入らなく、鉛を引きずって歩いているような感じがあり、ひさしぶりにおだやかにしんどいなぁと思いそんな中で頭に浮かんだのは母に「なんで産んだの」と問いかける自分のイメージだった。絶対に口にすることはないだろうと思うけれど、もしそう問うたら母はなんと答えるだろうか。母も一子さんやタリーの中のシャーリーズセロンのように子育てが苦痛だったのだろうか。思えば母はよく泣いていた。わたしや姉はよく叱られ、よく叩かれた。
この一週間ほどの中でふいにいくつかの確信的なことに気がついたような感覚があり、さらにそれが読み終えた一子さんの文章と繋がったような気がしている。だから今朝はひさしぶりにPCに向かって日記ではない文章を書いた。あてもなく書いた。つっかえながら、迷いながら書いた。まだ全然途中だけど、もしこれをきちんと書き終えることが出来たらきちんとなにかの形にしてこれまでにちょこちょこと色々なところで発表してきた文章などもまとめて一冊に綴じたいななどと考えた。出来るだろうか。わからない。
最近はどこに言っても日記のことを言われてしまう(しまう、と書くのは気が引けるけれどそれが正直な感覚)。わたしは誰のために書いているためでもなんのために書いているわけでもないし、強いていうならば自分のためだけに書いている。だけど、そういう、例えば今回の一子さんのかなわないもそうだし、佐野洋子さんや川上未映子さんといった、生きづらさを隠すことなく書き連ねた文章にわたしは散々救われてきたから、もしこれがどこかの誰かにとってそういうものになり得るのなら、それはなんていうか、いいなぁ、と思うというかこの文章に何某かの意味があるとするならばそういうことでしかあり得ないというか、なんかそういうようなことは思うのだった。
最近はほとんど毎朝コーヒーを飲むけれど今朝はモカラテにした。自分を慰めたいときはそうしている。コーヒーにココアパウダーと蜂蜜を少し混ぜて、そこに温めてスチームした豆乳を入れるのだけど、大抵豆乳を多く用意し過ぎてしまう。わかっていてもどうしてもそうなってしまい、今朝も例に洩れず、だけどスチームしてふわふわになった泡なら乗せてしまってもいけるのではないかという自分の学習能力のなさと毎回毎回めんどくせーなというやけっぱちみたいな気持ちとでカップに注げば当然やはり溢れるので。今朝はその少しずつ溢れ流れていく茶色い液体をしばらくぼーっと眺めた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?