9月14日

社交辞令みたいなものが昔からまったく理解できず、具体的な提案を伴わない「会いたいねー」「またごはん行こうー」などのやり取りにどういった意味合いがあるのかわからずいちいち小さな苛立ちを感じてしまう。最近はいつもなら受け流せるような小さなことが気になってしまう。神経質になっているのかもしれない。もしくはひとりでいる時間が長くなり過ぎているのかもしれない。

以前友人が「このままひとりでいたらもう誰ともいられなくなると思った」といまの旦那さんと一緒に住み始めたときに言っていたことをときどき思い出す。最近そういうことについてよく考える。まだ先は長いからどうなるかわからないけど、最近はわりとこれからもひとりでいることを前提に先のことを考えるようになった。そういう方が性に合っているのかもなというのが素直なところで、それならそれで、という感じ。誰かと真剣に向き合う機会なんて人生の中で本当に数限られていて、そして多くのひとはそれを「夫婦」とかあるいは「パートナー」という形で経験するのだろうと思う。だからその機会を持たないのは割と大きな損失であるような気もするけれど、それを補う手段は当たり前にあるはずだし、仮に補えなかったとしてもそれなりに誠意を持って一生懸命生きていればどうにかなるだろう、というのがいまの見解。

ひととして割と大切ななにかが欠けているのではないか、という想いはずっとある。自分自身に対して。もしそうだとしたらわたしの場合目に見えて欠落しているというより、とても見えにくい奥の方でこっそり何かがない、というような感じだろうと想像する。まぁ、どちらでも何でもいいのだけど。なんにせよ与えられた形で生きるしかないのだから。

江國香織の『なかなか暮れない夏の夕暮れ』を一気読みした。2日はなかなかの記録のように思う。電車の乗り継ぎのエスカレーターや帰りの夜道などでも歩きながら読んだ。読書に没頭してしまうとインターフォンが鳴ってもひとに呼ばれても聞こえなくなってしまう主人公の話だった。江國香織は半年に1冊くらいは読みたくなる。前回読んだのがいつの何だったか思い出せずにいるのだけど、そのときはなんか江國香織が江國香織過ぎてちょっと読みにくいなぁと思ったのだけど、今回はちょうどよく江國香織だったのでよかった。満足している。淡々としているものの方が最近は好きみたいだ。

きのうはお店に行く前にhako galleryに寄って、天然のコットンやヘンプを使った寝具やタオル、衣類などを作っているブランドの展示をちらっと覗いた。とても素敵で、ちょうどちょっといい寝具が欲しいなと思っていたところだったからあれこれ欲しくなったけどやっぱりいいものだからそれなりのお値段で、もう少し状況が整ってから(つまり引越しをしてから)にしようと思い直した。ケータリングでなんと大好物のファラフェルサンドがメニューにあったので大喜びでテイクアウトした。きのうは何だかサンドイッチのようなものが食べたいなと思ったけど、白いパンを食べる気分じゃないなーと思っていたところだったので完璧だった。マリネされた野菜がたくさん入っていて美味しかった。かなりのボリュームでお腹いっぱいになった。きのうはちゃんとコーヒー豆も買えた。コーヒーを真面目に飲むようになったのは自粛期間に入ったくらいからで、それまではカルディで豆を買ったりしていたのだけど、あるとき買い物ついでにたまたま通りかかった喫茶店があまりにも暇そうで、コロナ禍で無くなったりしては悲しいと思い応援の気持ちも込めて豆を買ったのだけど、次の日コーヒーを淹れてみたら香りがまったく違ってとても感動して、それからはお店で焙煎された豆を買うようにしている。きのうはまだ飲んだことのない種類のものを買ったのであとで飲むのが楽しみ。コーヒーの楽しみがわかる日が来るなんて。

今日は久しぶりに家の日。マイペースに淡々と。

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