6月17日 肉を食べない

きのうは日記を書いていたけれど、書き途中で時間切れになってしまった。Ropesのライブに行ったことや友人が主催する対話の会に行ったことなどを書いていたのだけど。本当に不思議だけれど物事とそれに伴う言葉には鮮度があり、そのときを逃してしまうとやっぱりもうダメなんである。まぁでもなんでもそうか。

何日か前、スーパーに買い物に行くついでにホームセンターに寄って、ハーブの苗をいくつか買ってきた。パセリとバジルと大葉。あと簡単に枝豆が育てられるらしいキット。アマゾンで鉢と土を注文して鉢はもう届いて、土は明日来る。あとは小松菜とディルもやりたい。本当はトマトも育てたいけど、トマトはけっこうスペースがないと難しそうだし支える棒を立てたりしなくちゃいけないから迷い中。あまり欲張らずに少しずつはじめるのがきっといいのだろうなという気がしている。いずれにしても楽しみ。買うと高いわりに使い切れずすぐしなしなになってしまうハーブ類を使いたいときに使いたいだけすぐに採れる幸せ、しかも農薬などの心配をせずに。最高じゃないか。

そうしてホームセンターで買い物を終えてスーパーに行き、会計を済ませて買ったものを袋に詰めようと台のところに進んだとき、隣り合わせた女性のカゴの中に小さな挽肉のパック(たぶん鶏肉)が入っているのがぱっと目に入った。わたしは反射的にそれを気持ち悪いと感じた、そしてそのことにとても動揺した。よく考えてみたら生肉を見たのはとてもひさしぶりだったからかもしれない。最近はSNSでステーキなどの肉料理の画像が流れてくるとけっこうキツい。

わたしが肉の一切を食べるのをやめてからもうすぐ2年になろうとしているが、肉をやめてからは不思議なことにだんだん魚も卵も乳製品も食べたいと思わなくなり、今年に入ってからは動物性の食品を買わなくなった(卵やバターの入った焼き菓子などはときどき買っちゃう)。外でひとと食事をするときには多少いただくこともあるけれど、特別すすんで食べたいとは思わなくなった。自然にそうなった。

なぜ肉を食べないのかとよく聞かれるのだけど、それもわたしにとってはとても自然なことだった。一昨年に入ってから、定期的に断食をするようになり、断食前後は動物性の食品を控えるのが良いとされているのであまり食べなくなり、そうしているうちに特に食べたいとも思わなくなった。環境や倫理の観点から家畜産業やいまの食文化のあり方についてはずっと疑問や違和感を持っていたから、だったらもうわざわざ食べる必要はないなと思った、だからわたしは肉を食べるのをやめた。人間が食べるための(あるいは乳製品を得るための)牛や豚や鶏を育てることで地球環境にどれだけの悪影響を及ぼしているのか、そしてそれらの家畜はどれほど劣悪な環境で育てられているのか、さらに、それらを食べた人体にはどのような悪影響があるのか。そういうことを考えはじめるとむしろ肉を食べていることの方が不自然だなと最近は思うようになった。

じゃぁなぜひとは肉を食べるのか。

わたしが肉を食べていた理由は、“そういうもの”だと思っていたからだ。野菜・果物・肉・魚・豆・海藻などをバランスよく摂ることが正しいと漠然と思っていたからだ。つまり“なんとなく”食べていた。あとはまぁ普通に美味しいしね。アメリカにいた二十歳前後の頃ベジタリアンの子はすでに周りに何人かいたけれど「ふーん」くらいにしか思っていなかったし、弟や姉が肉をやめたときも同じだった。他人事だった。単純にきっかけの問題なのかもしれない。不思議なことだなと思う、だけどひとたび世界が反転してしまえばもう元には戻れない。そういうものだ。

なぜ肉を買うのか。スーパーでプラスチックに包まれた肉の破片を手にするとき、それはどこでどのようにして作られ、運ばれ、それによってどのような影響があるのか。そういうことを考えることはだけどとても大切なことのように思う。それをした上で選択するということ。

そしてそれはもちろん魚だって卵だって野菜だってなんだって同じで(この間SNSで、身動きひとつ取れないほど狭いケージの中に閉じ込められた毛の抜けた鶏が卵を産み落としそしてそれを人間が集めて回る映像を見てしまい、卵もやっぱりもう買わないなと思った、今度島に帰ったら知り合いの家で平飼いされている鶏のそれは久しぶりに食べるかもしれない)、周りでもファストファッションを着ている友人知人は意外と多いのだなということを最近は思い知りわりと挫けそうになるけれど、それだって同じことなのだ。それらがどうやって作られているのか。環境的にもそうだし、倫理的にも。多くの途上国のひとたちが搾取されている(らしい)という事実。

ちょうどきのうグンゼが新疆綿の使用中止を検討しているという記事を見た。

対するファーストリテイリング(ユニクロ)や良品計画(無印良品)は新疆綿の使用継続を表明して話題になっていた。ユニクロはもう随分前から買うことをやめているけれど、それを見て無印ももう買えなくなってしまった、と思った。仕方がない。DHCの商品を絶対に買わないのと同じことだ(元々使ってないけど)。

とか書いていたらこんな記事が。

日本の衣料品は97%が輸入で、うち、中国からの輸入が7割を占めている。そして、中国の綿の8割は新疆綿である。

当たり前だけれど、なにもユニクロと無印を回避すれば済む話ではない。しかもアメリカの利権問題が絡んでいるらしい、云々。オーガニックコットンならいいというわけじゃないし、そもそもコットン自体がとても環境に不可の大きい素材だという話もこの間耳にした。色々が複雑過ぎる。憂鬱。

きのうの朝起きたら土地利用規制法案が深夜に強行採決(またしても)されており、本当にしんどいと思った。

知れば知るほどますますしんどい。どうして世の中はこんなにも複雑で生きづらくなってしまったんだろう。いつどこで誰が何を間違ったんだろう、と思う、だけど長い年月をかけて少しずつ生まれてた歪みの結果がいまであることは疑いようがなく、そしてだけど自分に一切の非がないなんて言えるはずもなく、だから仕方がない。

(念のため断っておくけれど、わたしは自分が正しいなんて思っていないし、誰かの選択を否定するつもりもない。生きていれば当たり前に二酸化炭素を排出し、電力を消費し、水を汚し、ゴミを出しているのだし(ついにコンポストをはじめようと決意しそのための道具を買った、だけどそれだって通販で買ったからゴミを減らすための行為によってCO2の生成に貢献している万歳、アマゾンの利用についてもそろそろ真剣に考えなくてはいけない)無害でなんていられるわけがない。悲しい。でも、わたしはこう思うからこうしている、あなたはどう?ということは聞いてみたいと思う)

わたしたちは知らないといけない。知る努力をし、そして考えなくてはいけない。そしてそれを行動に変換していかなくてはいけない。そういうことを、日々思う。

夕方そして夜にかけての風が大変に心地よく、調子に乗って網戸まで開け放って過ごしていたら上から下まで赤いぽつぽつだらけ、痒くてますます眠れないのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?