7月6日
晴れ間が出そうなので急いで洗濯。ずっと天気も悪かったしちょっと溜まってしまっていた。そうしてだけど半分を過ぎたくらいになって入れ忘れたものの存在に気づき、あぁ、と思う。そしてわたしにはあとでシルクのシャツを手洗いするという任務が残っている。そういうなんてことない小さなことが億劫でいつも後回しにしてしまう。
最近はなるべく頑張って朝冥想の時間を取るようにしているのだけど、今朝はまったく集中できず。あれこれ考えごとをしているうちに20分が過ぎた。
きのうの朝聴いていた小泉今日子さんのポッドキャストで、吉本ばななさんと影響を受けた作品の話をしていて、小泉さんが大島弓子さんの名前をあげていた(「神」と呼んでいた)。小泉さん主演の『グーグーだって猫である』という作品の名前は知っていたけれど、大島弓子のエッセイを元にしていたということを初めて知り、夜家に帰ってから観てみようとAmazonで検索したら有料で別に数百円なんて払えばいいのだけどきのうはなんとなくふーん、という気持ちになって、それよりもその下のおすすめ欄に出てきた『食べる女』という小泉さんの別の映画が気になって何の前知識もなく観てみた。
演出の細かいことが気になってしまう類の映画だったけれど(オートロックのはずのマンションの部屋の扉に物がかけられていたりとか)、でもそれぞれに美しいたくさんの女性たちが美味しいものを食べ、なんとない距離感の中で連帯しそれぞれに生きている、その様子が気持ちよく描かれていて、わたしは女でいることもひとりでいることも肯定してもらったような気がした。きょんきょん演じる物書きの主人公の台詞に「人はおいしいごはんを食べているときと、愛しいセックスしているときが一番争いから遠くなる、セックスは相手がいないとできないけど、ごはんはいつでもできる」というものがあり、そうだそうだ、と思った。小泉さんの皺が刻まれた顔もとても美しいと思った。
DOMMUNEの配信以来わたしは小泉さんがとても好きで、勝手に親近感を持っている。いつかまたお会いできたらいいなと思う。そして大島弓子作品をわたしは一冊しか持っていないのでゆっくり読もうと思った。
植本さんのエッセイを読んでいて、赤裸々、ということについてきのうとおとといと書いた。わたしがここで書いている文章はその時点で読んでいるものの文体にいつも引っ張られるから、植本さんがそうしているようにいつもなら書かないであろう不満不平も書いてみていたけれど、なんか別にそれはわたしが書きたいことではないな、と思っていま消したところ。なんていうか、やっぱりそれは自分のものではないから全然しっくり来ず、気持ちが悪かった。自分の中の中心がすぐに揺れ動いて、基準を外に求めたり誰かの真似をしたりしてしまうところがある。わたしはわたしなのだから、そういう癖も少しずつ手放したい。
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