7月4日

きのうは23時頃になってぐーっと眠気がきて、もういいやベッドに入ろうと横になり本を読んでいたがすぐにうとうとしてだけど話の続きが気になって粘ったけれどやっぱりすぐ目を閉じてしまったので23時半頃には眠りについたはずなのだけど、今朝はベッドを出たのが8時で、それというのはやっぱり少し寝過ぎな気がする。

嫌な夢をみた、と思ったことは覚えているけれど、内容は忘れてしまった。

頭の中には常に言葉が駆け巡っており、それらをなるべく記録したいと思うのだけど(なぜそう思うのだろう不思議)、瞬間は瞬間のうちに過ぎていき、本当に、すぐに上書きされていってしまうのだよね。書きたいことはたくさんあるのに、全然間に合わない。それはかなしいというか切ないというかやるせないというかもどかしいというか。

この間打ち合わせのあと(オフラインかと思い電車を乗り継ぎ現地まで向かっていれば最寄駅に着いたところで「今日のURLです!」と連絡が入り、慌てて近くにWi-Fiのあるカフェを探すもそんなものはなく、仕方がないのでコーヒースタンドでコーヒーを買い外のベンチで携帯で参加した、終わるころになって小雨が降った)渋谷まで歩いている道すがら風情のある古本屋さんがあり、最近は本を沢山買い溜めしたので当面買うまいと思っていた矢先だったので一瞬躊躇するもやはり吸い寄せられて雑多に並んだ本棚をぐるっと見てみると植本一子さんの『家族最後の日』が置いてあり、結局ほとんど迷わずレジに持って行った。そうして読みはじめていま半分くらい。夫のECDさんが癌宣告を受けた、というあたり。「これをネタにして稼ごう!」と夫婦で言い合うくだりがあり、なんていうか半分冗談なのかもしれないが、恐らくは本音も含まれているのであり、その姿勢というかあり方に感服する想い。はじめてECDさんのエッセイを読み、そのあとに植本さんのエッセイを読んだとき、どちらの本だったか忘れたが「これで我々家族の日々はほとんど公にされている」というようなことが書いてあり、それはまさにわたしが彼らの本を読みながら感じていたことであり、なんていうか、本当に「すごい」と思うのだ。

エッセイなんていうものは、フィクションとの中間みたいなものを除けば赤裸々であればあるほど面白く、だからつまりはそういうことなのだけど。でもそれだけ自らを“ネタ”として晒せるというのはどういう心地なのだろう、と考える。佐野洋子さんがエッセイ本を出版したあとに、親戚中からあれこれ言われたというのを読んだけれど、そういうこととかだってさ、普通考えてしまう。わたしだって友人の名前をここに書くときはちょっと気を遣う。自分のことはべつにいいけど、でも自分のことを書こうとすれば周囲の近しいひとたちのことを書くことは避けられないわけで。本にするときにはそれらの登場人物にいちいち断りを入れたりするんだろうか、とか、考える。そしてもちろん出来事その他を克明に記すということ以上に自分の心情をそれこそ赤裸々に書く、ということが大きく作用しているわけで、それができるひとというのはやはり限られているのだろう、ということを思う。

まだまだまだ、書きたいことがある。が、今日はこれからお店の仕事。今週はまるっと休みだったのできのう久しぶりにお店に行ったら久しぶりに一日中賑やかでそれというのは大変喜ばしいことだけれどとても疲れた。単純に一日立っているだけでも疲れるし、加えてひとと一日中話しているのだからそりゃ疲れるよね、と思う。しかも気心の知れた友人ではなく“お客さん”と。みんな良いひとばかりだからストレスはないけれど。今日は雨だからのんびりかなきっと。のろのろと、出かけなくては。遅刻するわ。

都議選投開票、どうでしょうか。

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