12月10日

話して指摘されて気づいたこと、私の生き辛さの根元、それは”自分のことが大嫌い”ということだった。自分が人に依存してしまうのも、自分に生きている価値がないと思っているのも、子どもを可愛がれないのも、全部自分のことが嫌いということが原因にあり、どうして自分のことが嫌いになってしまったかといえば、それは親の育て方にあるのだという。自分の親はまともだったと思うし、思いたい、でも、親を悪く思いたくないのは子どもの本能で、まともな育てられ方をすれば、こんな風に自己肯定感がない人間にはならないのだそうだ。
(植本一子『かなわない』)

読み終えてじわじわと重みを増して背中の真ん中あたりにのしかかってくるよう。重たい。思うにこの「まとも」という言葉にすごく堪えている。一子さんが助言を受けていた”先生”こと漫画家の安田弘之さん(最近SNSの広告でよくみかける『ちひろさん』という漫画を描いている方、ちょうど気になっていたのだ、買おうかな)の言葉が正しいのならわたしは「まともな育てられ方」をしていないということになる。

まとも。まとも?

この世にまともに育った人間なんているのか、とも思うけれど。まともとか普通とか、そういうのってわたしには本当によくわからないので。

わたしの親がまともだったかどうか。至極まともだと思う。ふたりとも国立大学を卒業し、父はいわゆる大企業に就職し、母は公務員になり、間も無く結婚し、子供を産み育て、戸建ての家を買い、だけどまともっていうのはそういうことじゃないのよね、まったくもって。

わたしは親に愛されていなかった(いない)とは思っていない。母は毎年誕生日には手作りのケーキを焼いてくれたし、友達が泊まりにくればいつもたくさん料理を作ってくれた。旅行でいろんなところに連れて行ってもらったし、習いごともいくつもやらせてもらったし、海外にも行かせてもらった。だけど愛っていうのはそういうことじゃないのよね、まったく、まったくもって。

仮にわたしのこの圧倒的自己肯定感の低さが親の育て方によるものだとして、原因がわかること、そしてそれが自分のせいではないのだということはわたしに少なからず安堵をもたらすけれど、自分の親は「まともな育て方」をしなかった、自分は「まともな育てられ方」をしなかったと認めることは、その多少の安堵を遥かに越えて有り余るほどの苦しみが伴うのではないか。それはほとんど恐怖。

わたしは自分のことがずっと好きではない(一子さんのようにはっきりと「大嫌い」と書けないところに自分の未練がましさを感じる)。だからひとに好かれるのが苦手だし、ひとのことも本当の本当にはたぶん好きになれていないと感じる。自分の中にはいつもふたつの人格があり、そしてそれらはそれぞれに真逆の性格を持ち、その中間がすっぽりと抜け落ちている。こっち側のひととあっち側のひとがシーソーのように上がったり下がったりを繰り返し、わたしは振り回され、なす術なくただ疲れすり減る。

普通は混じり合って灰色をしているものなのですが、きれいにぱっくりと白と黒に分かれてしまっていますね。普通はもっと振り幅が小さく一人の人間の機嫌程度お範囲内に収まっているのですが、あなたの場合は完全に交代してしまうようです。自信がなく、不安で見捨てられる恐怖心が強く、人が幸福そうだと気に入らない。そういう黒いあなたです。本来は白だけでも黒だけでもダメです。ただ白い方の人格が気に入られてると強く思い、黒い方の人格を押し込めて出さないようにする人は、この手の分離を起こします。

まったくよく当てはまりますね。

曲や文章に「黒い方」のことを書くと、よく驚かれる。「そんな風には見えないのに」と言われる。自分の中の黒が自分の中に当たり前に存在し過ぎていて驚かれることにわたしは驚いていたけれど、無意識に白ばかりを外に出してきたのかもしれない。思い当たる節は、とてもある。

これは本には書かれていなかったけれど、こういうことを考えていると辛いとか苦しいとか悲しいとか、そういうこともだんだん感じなくなってくる。自分という入れ物の端と端にある白と黒の高くそびえる牙城のはざまにすとんと落ちて、そうなるともう何も感じなくなるんである。そういうとき、あぁ心が失くなった、と思う。

わたしはだけどこんなことをこんなところに書いて、で?と思う。気にかけて欲しいわけでも心配されたいわけでもない。むしろ誰にも気にかけないで欲しいし心配して欲しくない。同情もして欲しくないしわかっても欲しくない。なにも望んでいない。書くことに理由なんてない。音楽を作ることに理由がないのと同じように。

わたしが例えばこのまま人前に出て歌うことをやめて、こうして自分の中の不可思議をただ書き連ねることだけをするようになったら、実在しているのかしていないのかも書かれていることが本当か嘘なのかもわからない架空の存在みたいになれるかな、ということを今日は妄想した。

頭がどんどん重量を増していて首がもたげてこのまま落ちそう。安いホラー映画みたいに。

明日はラジオに出るらしい。『CIC LIVE』16:00〜17:00。SaveOurSpace、WeNeedCultureのひととして、ロフトの梅造さんと、映画監督の西原さんと一緒に。終わったあとはWeNeedCultureで一緒に活動している瀬戸山さんが演出している舞台にお邪魔させてもらうことになった。

心と体が気持ちのいいほどに乖離しているので日常生活はまったく以てして異常なく淡々と進んでいく、そういう風にできていてよかったとも思うけれど、一方でそれは空虚でひどく滑稽なことにも思える。



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