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多様性に関する問い

 つい先ほど、ある会でとっても面白い問題提起をいただき、自分なりにまとめてみたいと思い、久々に筆を取りました。1年振りくらいです。


ズバリ、多様性とはどうあるべきか、という問いでした。


 現代において、流動的かつ膨大な社会を一つ一つ理解し、噛み砕く余地は残されていません。つまり、電子メディアで大量に流入してくる他国の災害、貧困に喘ぐ人の声、隣県で苦しんでいる患者の様子は、情報へと化していきます。すると、それは知っているだけのことになり、情動や衝動的な関心は生まれにくくなります。ここに多様性は生まれず、代わりに無関心が生まれます。

 ある種、これは人間が精神的に安定して生き残るために身につけている戦術なのかもしれません。無関心を装うことで、生活に必要なエネルギーを保っているとも考えられます。しかし一方で、それが人間の絶対的な本質である、と諦めることでもないでしょう。例えば、災害が自分の友達に降りかかったら、紛争地に家族がいたとしたら、それは否応にも自分ごととなり、いてもたってもいられなくなります。するとそこには理解をしようとする動機が生まれ、何らかの行動が生まれるはずです。

 つまり、いかに情報ではなく、人間として考えられる時空間領域を拡張していくかが多様性受容への大きな鍵なのだと思います。そのためには、さまざまな方法があるでしょう。一番効果的なのは、やはり人とつながることであるはずです。「〇〇国の人」、ではなく、「野球が好きで、勉強を頑張っている〇〇さん」という関係があったとしたら、それはもう顔の見える関係です。

 もう一つの方法は、「私があなたであることを知り、誰かは私であることと想像することではないでしょうか。」私たちは細かい差異はありながらも、共通していることはたくさんあります。生まれ、やがては死んでいきます。遠い国の誰かでも、同じ月をみています。経済環境は全く異なっても、家族がいて、その絆を大切に思っています。あらゆる生物が派生して進化してきたような、生物学的な進化論も違う側面からこの共通性を後押しするでしょう。また仏教の教えを借りれば、「一切は空である。」という言葉も近いかもしれません。一切の事物は、相互の連関(縁)によって成り立っており、実在はしていないのだ、と説明されます。つまり、実は自分と他者との境界も曖昧であり、相互のご縁によって現状が成立していると考えます。私はあなたであり、あなたは私である、と考えると、自然と関心と思いやりが湧いてきます。

 また現代においては、こうした他者との連帯は、より可視的で実用的な形へと変化しています。例えばグローバル経済依存体制はその一例です。遠い国の誰かの仕事は、私の生活にダイレクトに影響を及ぼします。その逆もまた然りです。

 先進国の豊かな人間だけがワクチンを打っても、課題は一向に解決しません。一部の人々の生活のために環境と外部の人間を犠牲にすれば、それは巡り巡ってその一部の人々の命を脅かします。

 

 そろそろ結論に入らないと誰もスクロールしてくれなさそうですので、一言でまとめてみようと思います。

多様性の姿とは「情報ではなく、人間として向き合える領域を広げていく努力を諦めないこと。」なのではないでしょうか。

 これが今の考えに近い言葉だと考えています。最初はまず身近な人との関係から始まるでしょう。そこから輪が広がり、その領域が一歩広がれば、そこにはまた新しい人間が増えます。その人たちとの関係を築けば、また一つ大きな輪へと広がります。こうしていると、また同時に「きっとこの先にもこうやって人間がいるんだ。」という倫理的な想像力も膨らんでくるのではと期待しています。

 書くだけで、まだまだ人間として体現できていない未熟者ですが、一つの学びとして、また今後の自分へのメッセージとして残しておければと思います。

 ここまで読んでくださったあなたは、きっといつもお世話になっている方だと思います。まずは、こうして繋がってくださる方々を大切にすることから始まるのだな、と改めて感じた時間でした。

 ありがとうございました。

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