PTSDの施術、になるか?

 いきなり直感的な話になりますが、PTSDの根本は〈表現・表出し損ねた怒り〉にあるのじゃないか、というのが私の仮説です。つらい経験に遭った〈被害〉の側面より、天災・人災を問わず、受難に対して「なぜ私がこんな目に……!」と瞬時に・猛烈に湧いた怒りを、うまく・適切に・適時に、表出・表現できなかったことによる〈こじれ〉に注目したい。
 そしてこの〈こじれ〉と、〈みぞおちの凝りあるいは弛緩〉が、何かしら関連するのでないか、と、ずいぶん以前から考えていました。
 ことわざ風に言うと、腹に据えかねて固まりになった怒り、という感じ。その固まりをほどく手助けが整体でできるなら、怒りを含めた体験の全体を腑に落とし流すことにならないか、という期待です。

 みぞおち、と聞いて私が連想するのは中国医学の三焦経さんしょうけいという経絡けいらくで、この経絡は水の循環と関係する、と言われます。血液とか体液とか、そういう種類の〈水〉です。

 これまでに何度か、〈水〉と思ってみたり・〈こじれ〉と思ってみたりしながら、みぞおち周囲に施術を試みることはあったのですが、どうもイメージがぴったり来ない。
 もちろん、筋力検査で反応は拾えているし、施術をしていてダメな感じもしない。でも皮膚・筋肉に施術しているときほど明確な手応えが私には得られないし、〈私はコレに施術している!〉という確固たるイメージもありませんから、どうにも作業が頼りない。そうすると、施術しながら、「こんなことしていても時間の無駄なんじゃないかしら……」心配になってきて、「もっと有意義そうなところを探し直して、そちらに時間をかけるべきじゃないか?」焦り出して、じっくり施術に取り組めなかったのです。
 それで、何となく、みぞおちには施術しなくなる。でもずっと、気にはなっている……。

 転機が起きたのは昨年末、『構造的解離』を読みながらジャネ先生の〈解離の図〉を見直していたときです。〈解離の図〉には、フラッシュバックの誘発刺激として視覚・聴覚と併せて運動感覚が挙げられています。
 この運動感覚って、筋肉の伸縮具合のことだろうか? ふと疑問が湧きました。伸縮具合を感覚するセンサーは筋肉内に存在しますから、みぞおちへの施術のときには、私はそのセンサーに施術しているのかも? いや、でも筋肉のセンサーは全身あちこちにあるわけだから、そうだとしたら施術がみぞおちに集中するのは変だよなあ……。
 ごちゃごちゃ考えてみるもののあっさり煮詰まって、何かヒントがもらえないだろうか……神田橋先生に相談、というか丸投げしました。

 私の話をうーん…と聞いてくださっていた先生は、こんな説明ではどうだろう?と、「神経接合部の血流、みたいなものを良くしている、とイメージするのはどうでしょう?」。

 交感神経のような長い神経は、延長コードみたいな作りになっています。脳からビーッとコードが伸びて、途中にあるタップでコードを切り替え。さらにビーッと伸びて、途中のタップでコードを切り替え。そうやって継ぎ足し継ぎ足しして目的地まで伸びるのですが、電気のコンセントのように端子をガチッとはめ込むのでなく、接続部分には隙間があります。その隙間に、上流の神経から下流の神経に向けて粉を撒く(乱暴な説明だなあ……)わけですが、その隙間の流れが澱んでいるために、粉の届きが悪くなっている・無駄な溜まりができている――という映像が、先生の助言を聞いてパアアッと浮かびました。そんなこと、考えたこともなかった!
 もちろん、この想像が真実かどうか、施術でその溜まりが動かせるのかどうかなんてわかりません。でもともかく、そのイメージを描くと私は施術ができる!

 で、この数日、打って変わったどっしり気分でみぞおちにちくちく施術していますが、これが良い感じなのです。いままでどうしても弛めきれなかったイヤな種類の背中の凝りが、じわじわ弛んでいくのがわかります。お客さんからも、背中が伸びると高評価(?)です。
 肝心のPTSDあるいは怒りの固まりへの効果についてはまだわかりません。結果が出るにしても、いずれぼちぼちといったところでしょう。そちらはまた進展があれば記録したいと思います。
 とりあえず、まずは現時点の中間報告でした。

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