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女性のありのままを描くまで

今日はとても怠惰だった。

いつも通り、7:30にかけたアラームの10分前に目を覚まし、2度寝を楽しんだあと、昨日の夜ぼんやりと考えていた今日のスケジュールを明確にしたのだが、顔を洗っても、朝ごはんを食べても、どうしてもベッドに引き寄せられてしまうので、今日は大人しく惰眠を貪ることにした。

次に目を覚ましたのは10時半過ぎ。
流石に今日じゃないとできないことはやっておこうと思い、自転車で買い出しに出た。
ついでに、昨日駅のエスカレーターで拾った一円玉を近所の神社に納めてきた。
11時半過ぎに帰宅し、荷物を片付けたあと、寝巻きに着替えてもう一度寝た。

目を覚ましたのは13時過ぎ。
「ドキュメント72時」を観ながら、食事の準備をした。
異様にカオマンガイが食べたい気分だったので、材料を入れて炊飯器くんに頑張ってもらうことにした。
私は炊き上がるのを待つのみだったので、番組を観ながら横になっていたらいつの間にか眠っていた。

はっと時計をみると17時過ぎ。
慌てて炊飯器を覗き込むと、案の定お米がベチャベチャになっていた。
うーむと首を捻ってみたものの、今日はなんのやる気も出ないのでカオマンガイは中華粥になった。
とても美味しかった。
食後は、ベッドで仰向けになりながら本を読んでいたら、いつの間にか眠っていた。

暑苦しさと不快感で目が覚めた。
Tシャツの胸元に、逆三角形の汗染みができるほど汗をかいていた。
悪い夢でも見ていたのかもしれないが、全く覚えていない。
時計をみると21時45分すぎ。
今起きたばかりなのに、「疲れたからシャワーを浴びて、もう寝るか」と思っていた。
眠りすぎて頭がおかしくなっていた。
せっかくなので、散歩がてらに近所の銭湯に行ってみることにした。

以前から気にはなっていたものの、なんとなく今じゃない気がして足を遠ざけていたのだが、人が少ない割に新しく綺麗で、地域住民の会合場所となっているとってもいい銭湯だった。
そして湯がとても熱い。

大浴場や温泉の類は大好きなのだが、1人で行くのはあんまり好きではない。
1人だと「うへぁ〜」と言えないからだ。
それは、1人で外食するときに美味いものを食べて「うまいっ」と言えないくらい辛い。

できれば友人と行きたいのだが、大衆浴場を嫌がる人が割と多い。
そして行ったとしても、彼女たちは体毛や脱毛の話ばかりするのだ。
よくもまあ、毛の話でそんなに夢中になれるものだ。

まったく、もう。

まったくもうと言いながら、私もちょっと毛に纏わる話を。


西洋絵画史における女性ヌード描写の変遷を辿ると、また絵の見方が変わってくる。

紀元後、西洋絵画の歴史の中で結構長い間、生身の女性ヌードを描くことを禁止されていた。(最悪の場合、極刑に処されることもあったらしい)

その代わりと言っては語弊があるが、神話に出てくる女神のヌードはOKであった。

画家たちは時代の流れとともに、徐々に生活感のある女神を描いていきながら、生身の女性と女神とのギリギリを追求していったのである。

そしてついに、スペインの画家ゴヤが『裸のマハ(1800年ごろ)』という作品で、生身の女性の陰毛を描いた。

ゴヤは生身の女性を描いた罪で、異端審問に召喚された。宮廷画家の地位どころか、命すらかけて描いたのだ。

その後も様々な画家が生身の女性ヌードを発表し、クールベという画家が『世界の紀元(1866年)』という作品で女性の陰部を描いた。

いま私たちが、生身の女性のありのままを自由に描けているのは、ゴヤの命がけの挑戦があったからなのである。

そう思うと、現代芸術家たちが造る、ちょっと破廉恥な作品が、時代を映したとてつもなく素晴らしい作品に見えてはこないだろうか。

どうですかね?

というか、全世界の男性諸君に物申したい。
体毛は美しいのだと。