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描きたくないものもたくさんあるよ

今日は休日なので、青春18きっぷの残りを使って、熱海のMOA美術館へ行って大好きな吉田博さんの作品を見に行く予定だった。昨晩までは。

朝起きてすぐに、自分でも笑っちゃうくらい大きなため息をついてしまったのでやめとこうかなぁと思いつつ、そういえば今日は開館日だったかなと思ってホームページを見たら、企画展が美人画だったので結局行かないことにした。

素直な言葉で書くけれど、私は人間を描くのも、人間を描いた絵を観るのも嫌い。とても。

それを自覚したのは高校生の時なので、生まれつきそうだったのかわからないし、なんで嫌いなのかもよくわからないが、そうなるきっかけの1つに『人体の不思議展』に行ったことは確実に含まれる。

おそらく、きちんとした展示を観たのはそれが初めてだったと思う。

ある日、母が「なんとかに行くけど、行く?」と聞いてきて、行くと言わなければ1人で留守番になることがわかっていたので、なんだかよくわからなかったが母と兄について行った。

入り口付近では色んな臓器が展示されていたはず。
喫煙者の肺と、非喫煙者の肺が展示されていて、これを観たときに、私は死ぬまでタバコを吸わないと誓ったから。

いくつかの臓器の後、人間を丸ごと使用した剥製を観た。

悍ましかった。


私は母の服の裾を引っ張って、「帰りたい」と言った。

来る前に、「亡くなった人の体を展示しているから、気持ち悪いとか、怖いとか、言っちゃダメだし思うのもダメよ」と言われたので、「帰りたい」としか言えなかったのだ。

すると母が、私を黙らせる必殺技「嫌なら1人で帰なさい」を唱えたので、その後はほとんど床しか見なかった。

会場を出た後、生きていて良かったと心から思った。
なぜか、最後の部屋まで辿り着いたら、自分も皮を剥かれて展示品になると思い込んでいたからだ。

この展示はトラウマとなり、数年間は夢にまで出て来たと思う。
展示室に1人で置いて行かれて夜になって閉じ込められる夢とか、意識があるまま自分も展示品になる夢とか、剥製が動き出す夢とか。
鮮明に思い出すと、今日の夢に出て来そうで嫌だ。

そういうこともあって、人間の造形に嫌悪感を抱くようになった。


描くことを生業にしたいと思うようになってからずっと懸念していることがあって、それはオーダーされてもリクエストには答えられないということだ。

人間を描いて欲しいと言われても描けないし、これを描いて欲しいと言われてもやっぱり描けない。

厳密に言うと全く描けないと言うことでもない。

デザイナーをやっていたときに、説明書に入れる用の人間のイラストを何十枚も描いたこともあるし、学生の時に自画像を何枚も描いたこともあるし、できないことはない。

ただ、やっぱり描けない。
実感がないと描けないのだと思う。

実感というのは例えば、りんごを描くとき。
手のひらにりんごを乗せて重さを感じて。
繊維の模様をじっくり見て。
表面を撫でて質感を感じて。
匂いを嗅いで。
切断して、皮を剥いて、口にして味わって。
このりんごはどこからやって来て、どんな風に実って。
良さがわかって来たら、ようやく描きたいってなるのだと思う。

私は、良さを見出す能力が著しく欠如している。

そういうことが必要だと気づいてからは、意識的に物の良さを見出す訓練をしているけれど、心からそう思えないとダメなのだ。

しかも、実感がなくたって良いものを生み出せる人は世の中にはたくさんいるし。
そういう人をどうしても羨んでしまう。
シンプルに、デッサンの枚数が足りていないだけなのかもしれないけど。

それに私は、物心ついた時から絵を描くことが何よりも好きだったわけでもないし、自分の作るものに1度たりとも満足したことがない。

だから面白くて、楽しくて、辛くて、苦しんだ分だけ嬉しいんだけどね。

描きたいものがたくさんあって1度きりの人生では描ききれないのだけれど、描きたくないものもそれなりにたくさんあって。

それじゃあだめだよなと思う。