魂について
私には、二回だけ不思議な体験がある。
細かい体験はもう幾つかあるけれど、これは確実と言えるのは、二回だ。
一回目は、お腹の子どもを亡くして、その供養をしたときのこと。
私と夫で、小さな法要をお願いしたのだが、涙を流して必死でお念仏を唱えていたところ、キラキラとした光が囁くかのような声で、「ありがとう」と聞こえたのだ。
まるで、鈴の音のような声だった。「お母さん、ありがとう」「お母さん、大好き」
私はその時、初めて霊魂は存在すると感じたのだ。
それから数ヶ月で、今度は脳出血で祖父が亡くなったのだが、その前夜、眠れない私がパソコンをいじっていると、何かが私の肩に触れた。感じたのは暖かく、シャボン玉が肌に触れたときのような感覚。
振り返ると、大きな光の球が浮いていた。
びっくりしていると、それは私の横の空を横切り、隣の階段を上がっていった。見ると、小さな光の球も一緒だった。
私はすぐに、祖父が挨拶にきたのだと理解した。
それから、小さい光の球は、おそらく亡くした子だろうと思った。
ほぼ同時期に、不思議な体験をしているのに今気づいたけれど、あれは私が二十九歳のときの話だから、何か星的なものがあったかもしれない、とも思う。
それから私は、スピの世界に入って来たのだけれど、「この人のセッションがいいから」と薦められたセッションなども受けたが、なぜか話しているだけで寒くて寒くて、ガチガチ震えてしまう。
とてもじゃないけれど、あの体験で感じた純粋性や、絶対的な安心感につながる何かは、そこになかった。
自分でカードを引くようになると、イマジネーション的にいろんなものが見えたりもするようになったけれど、それでもまだ遠い。
あの体験は、絶対的な純粋性を知るきっかけになったわけだが、同時に、探究への道を開いたように思う。
今日、たまたま開いた動画で、こういうような言葉を見かけた。
人間が本来エゴイストだとするような、人間を矮小化する論調がここのところ持て囃されているが、本来人間というものは、崇高で素晴らしいものだ。
ちょっと動画だったこともあり、出典や正確な言葉まで覚えていないのだが、このような内容だった。
私はこの意見に、強く賛成する。
人の魂というものは、元来純粋性の塊のはずだ。
少なくとも、私はそう感じる。
あの子を亡くした日、私はただひたすらに彼方での無事を祈ったわけだが、そういう「欲のない(純粋な)願い」だったからこそ、あの子と繋がったのかもしれない。
祖父の方は、なぜ見えたのかわからないけれど、女1人孫で、祖父がとにかく可愛がってくれていたためかもしれない。
ただひたすらに念仏を唱えれば、やがて仏性が現れーーと、私の菩提寺の和尚様は経典を読ませてくださるが、まさにそうだったのだろう。
誰かのために、無心で祈るというのは、なかなかできないことだと思う。
でももし、その境地になれた時には、世界が変わる気がするし、より魂の自分に近づける気がする。
魂の道は、自分のことだけでは、きっと完結しない。
もちろん、自分を大事にするのは必要なこと。
でも、ここ数年スピの業界に身を置いたけれど、何かが違うと思ってしまう。
違和感を感じてしまう。
自分が大事。
その中に、被害者意識の自分を正当化する意識であったり、さまざまな意識が混ざりすぎている気がする。
「自分を愛する」という言葉が、一人歩きしているのだ。
じゃあ、どうしたらいいのか。
それは私にもわからない。
何しろ、探求中だ。
でも、「誰かのため」と必死に祈った時に通じた経験や、あの独特のあたたかさ、光を感じた体験が、言う。
「一度、自分の今の立場のままで、誰かのために、必死になってみたらいい」
何か、ヒントになればいいと、今日は取り留めなく書いてみた。
読んでくれて、ありがとう。
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