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自分で立てるようになるとは。

「何も考えてなさそう」と、ときどき言われる。

人の言葉を真に受ける私は、「何も考えてなさそう」と言われると、
「何も考えてないのかもしれない」不安になる。

でもふと、「何も考えてない」ってどんな状態だろうと考える。
何も考えてないので、頭の中が「ない」ということだろうか。
「無」ということだろうか。
「無」って結構すごい。
「無」ってマインドフルネスってことじゃないだろうか。
と一人で考え始める。

でもふと「無」ではないな、と気づく。
どちらかというと全然「ある」だなと感じる。
というか頭の中がグルグル考え事でいっぱいだったりする。
ということは「何も考えてない」ということではなさそうだと気づいて、ホッとする。

私は人に対して「何も考えてなさそう」と思うことがない。
生まれてこの方一度もない。
だからそんな風に言う人の気持もわからないし、どんな風に見えているかもわからない。
最近は分からないことがあると、ChatGPTに聞いてみる。
聞いてみたら答えてくれた。

「何も考えてなさそうに見える状態」というのは、人によって異なるかもしれませんが、一般的には以下のような見た目や表情が思い浮かびます。

目がぼんやりしている: 焦点が合っていない、または遠くを見ているような目つき。
表情が無表情: 顔の筋肉があまり動かず、笑顔や眉間のシワがない状態。
口が少し開いている: 口がわずかに開いていて、リラックスした状態。
姿勢が緩んでいる: 体がリラックスし、特に緊張感がない姿勢。例えば、椅子に深く座り込んでいる、あるいは肩が落ちている。
動きが少ない: 手や足をほとんど動かさず、静止していることが多い。

具体的には、例えば、公園のベンチに座っている人が空を見上げてぼんやりしている様子や、電車の中で窓の外をぼんやりと眺めている人などが挙げられます。

総じて「ぼーっと」しているようだった。なるほど、こんな風に見えているのかと納得する。たしかに結構「ぼーっと」している。

また「何を考えているかわからない」とも、ときどき言われる。
私からすると、「何を考えているか分かりやすい」人が多いなと思う。
怒ってたり、悲しんでたり、楽しそうだったり、そういうのがみんな分かりやすいなと思う。
そういう人を見ていると「人間らしくていいな」と思う。

「何を考えているかわからない」のは、感情が表出しにくいということもあるが、「私はこう考えている」を言わないからだということが、分かった。

当たり前だが、相手が「こう思う」と言わない限りは、周辺情報からの推測などで考えても、やはり相手の考えにたどり着くことができない。

自分の考えを伝える相手を無意識に絞っているようだった。
伝える相手を無意識に絞っているが、表層でのコミュニケーションは後発的に身につけているので、対人関係は円滑に進みやすい。

対人関係は相手に合わせるスキルが高いので、円滑に進むのだが、自己主張をすることができないので、無意識のうちの自分を抑えてしまい、気づけば関係性が崩壊してしまっている。ただどこからが抑えているのかが分からないことが問題だと気づいた。

表面的な対人関係を構築することができるのだが、本質的に人とつながりを持って関係性を築くことが難しいのである。
これは結構生きていく上で、生きづらさを生じさせる問題だなと感じた。

なので、自分の考えをこの人には伝えておきたいと思う人には、きちんと伝えてみるようにしてみた。
自分の考えを整理して、自分なりの言葉にして、伝えてみた。

そうすると、「何を言っているかわからない」と言われた。
驚いた。こんなに考えてみたけど、伝わらないのかと、驚いた。

驚いたけど、悲しくはなくて、「A」に対して「Aですね」と言わずに、「Aの良さも分かるけど、私はBですね」と伝えたに過ぎないので、違いが明確になったというだけなのである。

そもそも人とは「わかりあえない」という前提のもとで、「わかりあえなさ」を共有するだけでいいのだと気づいた。

必要以上に人に合わせる自分を置いてきてしまったので、相手からすると、全然ちがう誰かと話してる感覚があったかもしれない。

それは無意識に相手に合わせることをしていた私ではなくなってしまっただけなので、以前の私は終わりだが、始まりのように感じるのである。

自立するとは、自分を確立させていくプロセスのことを言うのだと思う。

相手に合わせることは、依存を意味して、他者の意見を聞いた上で、自分の意見を伝えられるようになって初めて自立に向かうのだと思う。

自立して初めて、何かを生み出していけるんだと感じている。


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