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好きな食べ物がわかってきた。

とある人が
「ほうれん草が好きなんですよね。」と言っていた。

「ほうれん草が好き」という言葉には、身体性も伴っていて、心からほうれん草が好きな気持が伝わった。

あまりに好きそうなので、それを聞いた私は”ほうれん草”をうまく認識できなかった。

”HOURENSOU”くらい認識できなくて、それが”ほうれん草”だと認識するまで少し時間がかかった。

私は”HOURENSOU”を”ほうれん草”だと認識していないけど、”多分ほうれん草”くらいの認識で相槌を打っていた。

その人は、その後「ほうれん草の好きな食べ方」について話していた。
私はそれを聴きながら「やっぱりほうれん草だったのか」「あの葉物の野菜か」と認識した。

なんでそんなことが起きたのかなと思うと、多分今まで「心からほうれん草が好きだ」と話す人に出会ったことがなかったことによって、”ほうれん草”が”ほうれん草”として受け取れなくなっていたようだった。
また私がそこまで自信を持って語れる「好きな食べ物がない」と気づいたことによって、好きな食べ物を語るという行為自体をうまく認識できなかったようだった。

別の人からは「好きな食べ物はなんですか?」と聞かれた。
そんなときに答えるフォーマットとして「パン」がある。
「パンです。」と答える。
「どんなパンですか?」と聞かれる。

急に心が落ち着かなくなる。
「どんなパン」が自分の中で反芻する。
必死に考えるけどパッと出てこなくて、またフォーマットにある好きな食べ物の「チーズ」を思い出し、チーズのパンを必死に探す。

やっとの思いで「ゴルゴンゾーラのパンです。」と答える。
「ゴルゴンゾーラのパンですかぁ。」と何やら納得したような驚いたような返事が返ってくる。

答えた後に「本当にゴルゴンゾーラのパンが好きなのか?」と問いかけてくる、もうひとりの自分がいる。
そんな心の内は見えないので、会話は何事もなくスルスル続いていった。

「ほうれん草が好き」と心から話した人と、「ゴルゴンゾーラのパンが好き」と一応答えた自分を比較した。
好きな食べ物を答えているはずなのに、なんでこんなに違うのだろうか。

自信があるかどうかの違いなのだが、自信を持って「ゴルゴンゾーラのパンが好き」と言おうと決心しても、自信はつかない。

人生の成長過程で自信を持って大人になってきた人と、自信がないなりになんとか生きてきた人。

自信のない人は、自分を許すことが必要なんだと感じた。

「これでいい」「大丈夫」と自分で自分に声をかけてあげることが必要で、そうして一つずつ許していくことができると、小さな自信が積み重なっていくんだと感じている。

自分を許すことができないのは、なんでだろうと考えていくと、
幼少期に紐づいていく。
小さな頃に傷つく体験をして、そのときに相手を否定できずに、自分を否定することで場を収めるコミュニケーション学んでしまったことにあるようだった。
そうした原体験を紐解いていくと、そのときの忘れようとしても忘れられなくて蓋をしていた「傷み」を取り出して、「傷ついたと思っていい」とそのときの自分に声をかけてあげることにした。

生きてきた中で、原体験となる「傷み」が生み出す「傷みの連鎖」がいくつかあったので、それぞれの自分に声をかけてあげた。

そうしてみると、不思議と自分の感情を否定することがなくなっていった。
ちゃんと自分の感情を否定することなく、受け入れることができるようになっていった。

そんな風に自信を取り戻していったことで、好きな食べ物がいくつか出てきた。
最近好きな食べ物は「とろろこんぶ」である。
ごはんにもうどんにも、とろろこんぶを入れては、幸せを感じて生きている。
今度誰かに好きな食べ物を聞かれたら、「とろろこんぶ」と答えようと思う。

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