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In the Beginning IS the Voice – 初めに音声がある

2020年から、小学校で英語授業が必修化された。それに伴い、文部科学省は「外国語に慣れ親しむ」「外国語によるコミュニケーション能力の向上」を狙いとした ALT(ネイティヴスピーカーの外国語指導助手)の採用を、これまで以上に積極的に進めている。僕はそのことに懐疑的だ。

社内言語を英語にする企業が徐々に増えてきている。入社時や昇進に際してTOEICの点数などが足切りに使われるケースも少なくないという話を、ちらほら見聞きする。

文科省の動きは、そんな世相を反映したものなのだろう。中高の6年では不十分ということか。

僕はそうは思わない。中学校から高校にかけての6年という期間は、「外国語に慣れ親しむ」にも「外国語によるコミュニケーション能力の向上」にも、十分な歳月だと思う。中身がそれにふさわしいものではないから、うまくいっていないだけだ。


Unspoken English

外国人の先生はいる?

アルバイトをしている塾で、中学生の子たちにそう尋ねてみた。いると言うから、今度は名前を尋ねてみた。ここで困ったことになった。僕が聴き取れないのだ。何度かのやりとりの後ようやく先生の名前はわかり、それ以外にもわかったことがあった。

質問をしたそもそもの理由は、彼らが spoken English(実際に話されている英語)に触れる機会があるのか、あるとすればどれだけなのかを知ることだった。その結果、せっかく彼らが「外国語に慣れ親しむ」ために呼ばれた先生の名前を、彼らが発音できない、つまりちゃんと覚えていないということがわかった。

日本の高校と大学で長きにわたって英語クラスの教鞭を執った言語学者の著書に、こんなことが書いてあった。

学生たちは自分の英語の発音を真似しようとせず、結局日本人英語教師が日本語発音で英語を読み上げ、生徒達は日本人教師の発音を真似する。彼らほどの文法・単語知識なら話せることがたくさんあるはずなのに、間違いを指摘され笑われることを恐れ、話すことをためらう。

"Please speak English !“ by JOHN A. S. ABECASIS-PHILLIPS
(筆者訳)

これでは、ネイティブスピーカーがいる意味が全くない。英語学ぶこと自体も無意味化してしまう。

Spoken English への架け橋が外され、通じない発音が常識となり、英語を話せなくたってへっちゃらな世間での安住が促されている。

先生たちを責めようとも思わない。彼らもまた、そういう英語学習環境で育ってきたの被害者なのだから。

英語能力の需要が高まり、社会人の英語学習者人口が増えている。ところが、何年も苦労してTOEICで高得点を取っても、必ずしも話せるようにならない、聴き取れるようにもならないことはよく知られている。学生時代の繰り返しになっている。

結局、どれだけ単語と文法に精通していても、「通じる」という成功体験に乏しければ、コミュニケーションは成立しにくい。なまじ「英語っぽい音」にしようとする小細工が、むしろ逆効果になっている場合も少なくない。


In the Beginning was the Word

新約聖書の「ヨハネによる福音書」には、こんなことが書かれている。

In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

僕は「初めに言葉ありき」と記憶していたけれど、口語訳では「言」となっていることを最近知った。調べてみると、これが見事な名訳なのだ。

“Word” の語源を調べてみると、ラテン語の “verbum” にたどり着く。この単語は、”verb”(動詞)の原語でもある。

初めに動詞があった?

いや、話はそこでは終わらない。”Verb” から派生した “verbal” という形容詞には、「話し言葉で表わした」という意味がある。動詞の “verbalise” は「話して表す」だ。”Verb”も元々は、動詞というより広く言葉全体を指していたらしい。

これらの事実から推し量るに、世界は「話し言葉」から始まったと聖書は伝えているのだ。文字の発明は、人類の長い長い歴史の中で見れば最近のことなのだから、あたりまえといっちゃあたりまえだ。そう考えると、口語訳で “word” を「言」、つまり「口に出して表されたこと」としたのは、実に巧みな翻訳ではないかと思うのだ。子ども向け訳にするなら「おはなし」がいいだろうか。

はじめにおはなしがあったよ。おはなしはかみさまといっしょだったよ。おはなしはかみさまだったよ。クラムボンがわらったよ。


In the Beginning IS the Voice

日本の英語教育を一歩引いて眺めてみると、文法・単語知識を詰め込むために英文があるような印象を受ける。そして「問題を解く」ことがゴールになっている。英語は語であり、語は話されてこそのものなのに。

「はじめに言がある」のだ。世界中のありとあらゆる言語が、まず話し言葉として発明された。口から発することができるさまざまな「音声」を、意味を成すようにアレンジして「言」が生まれた。単語や文章になった。だから「はじめに音声がある」と言い換えても良いだろう。最初に攻略すべきは「音声」なのだ。考えてみれば、僕たちはその順番で母国語を身につけてきたはずだ。文法から母国語を覚えた人などいない。

ところがなぜか他言語学習になると、「音声」をすっ飛ばしてしまう。それが合理的な学習方法であるはずがない。せっかく頑張って文法や単語を覚えても、肝心の発音でつまずき、自然な話しかたも身につかない。聴こえない英語、話せない英語がどんどん増えては埃をかぶり、やがて苦手意識へと姿を変えてしまう。なんともったいないことか。

英語を学ぶなら、「はじめに音声がある」を肝に銘じておこう。



僕の講座では、発音の獲得を最優先にしています。まずは聞き、真似をして、それから内容の理解に進み、今度は自分で言葉を織り、それを話してみる。このプロセスをしつこいくらいに繰り返す。

僕自身も繰り返し続けています。さて、今日は誰の言を聞こうかな。

それでは、I wish you happy learning!


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