相対が私を産んだ
何よりラッキーだったのは、幼稚園も学校も嫌いで行かず、家で退屈して漫画雑誌ばかり読みあさり、
時に裏山に1人で出かけて遊べたことだ。
次にラッキーだったのは、機能不全家庭で両親の関係は壊れていたので、この社会の問題は全て、異性を求める欲求や結婚から生じると、
7歳で看破でき、自分は余計なエネルギーを使わないと決められた。
選択の自由が内部に存在していた。
そして、この社会の矛盾が相対的に私を隠れ異端者にしてくれた。
周囲の大人が私に関心を払わなかったゆえに、私も周囲に関心を払わない人間になった。
相対とはそういう事であって、善悪ではもちろん無い。
ケアテイカーとして育ったので、何となく他人にケアして、ギフトをもらいつつ、本当の人間愛が学べなかった気もする。
ただ人と接する時は充分に親切にできるのが不思議で、これがどこで学べたかは知らない。
人間社会の寒々しさに凍えて、恐怖や不安を抱いているが、周囲はそれほど冷たくはなく、被害も受けたことはさほど無い。
つまりは壊れていった両親の関係は別として、
私は両親から生まれ、
愛も非愛ももらい、欠損も豊かももらい、そういう相対から生じた「現象」に過ぎない。
それら全てを取り除いてみて、
残ったものが宇宙による恩恵である。
それは「絶対」なのだから、
人として生まれたことはラッキーなことだ。
無も絶対なら、有も絶対。
憎しみや愛は相対。
相対的なものは滅びる運命となる。
しかし誕生も相対が産む。
虚数世界の3次元ホログラムが、この宇宙なら、我々は賑やかな誕生祭の主役の運命を背負ったに過ぎないが、反面で絶対を身の内に飼う。
そういうシステムの一部である。