生殖補助医療が生み出した“母親になる義務”に押しつぶされる母親たち

私自身も不妊治療によって子供を授かった。初めて子供を授かったのは35歳のとき。それまでは、男社会で仕事をしていたということもあり、妊娠・出産・子育てというワードから無縁の社会で生きてきた。

仕事仲間は独身ばかり。中学や高校の同級生から「妊娠したよ」、「子供が生まれました」と聞いてもどこか、まるで海外のニュースを聞いているような他人事感が否めなかった。

正直、ダンナと結婚したのも、35歳で妊孕能(妊娠する力)が落ちるというマスコミの扇動によるところが大きかった。結婚後、35歳にはなったが、目の前の仕事に必死すぎて、中々、妊娠することに夢中になれなかった。

そんなとき舞い込んできたダンナの転勤。今思えば、なんでついて行ったと思うのだが、本当にそのときは仕事のストレスから逃げ出したかった。それを言い訳に、ダンナの転勤で東京から田舎へと引っ越した。

そこで待ち受けていたのは、35歳の女が子供も仕事もなければ行き場がないというとても厳しい現実だった。

人間にはサードプレイスという、いわゆる自分の居場所が必要だったのだが、私はセカンドプレイス(仕事場)もなければ、居心地の良いサードプレイス(仲間)がなくなってしまったのだ。東京にいるときはセカンドプレイスもサードプレイス(仕事を超えた仲間)もあった。

そこで、私は早く、自分の居場所を見つけたくて、必死にあがいた。妊活に仕事探しに。でも、すぐに妊娠するわけでもなく、また、東京と同じ仕事を探すのは地方ではとても難しかった。

東京では右から左だった子育ての話や妊娠の話が、私に大きなプレッシャーとなり、降りかかってきたのだ。35歳で子供もおらず、仕事がない女性は社会で何の価値もない。そう思い込んでしまっていた。当時は。

そこで、私は一刻も早く妊娠したくて、不妊治療という、いわゆる神の領域に踏み込んでしまったのだ。

不妊治療によって、飛躍的に女性の妊娠率は上がり、母親になる女性は増加した。しかし、不妊治療によって、母親になる義務に押しつぶされる女性も増加したのだ。不妊治療がなかった1980年代まで、子供は自然にしか授かれず、自然にできなければ諦めるしかなかった。子供を諦めるのはどの時代も変わらず、辛く悲しい出来事だ。でも、不妊治療、生殖補助医療がなかった当時はすごくシンプルで、前を向き、生きていくしかなかった。それは、それで、離婚や親族からの圧力はあったかもしれない。でも、頼るすべである神の領域がなかったので、女性、本人だけの目線でみれば、前を向いていきる。それしかなかった。

でも、今は、違う。人工授精、体外受精、精子バンク、代理母などなど、様々なすべが用意されている。

“母親になりたい”、女性のその思いを(言い方は悪いが)逆手にとり、生殖補助医療は1980年代からこの40年で加速的に整備されてきた。

今、どこで区切りをつけていいかわからなくなってきている。年齢、そして、お金。この二つが今では区切りの理由の一つとなっている。でも年齢も時代とともに上がってきており、40代後半で妊娠・出産するケースもでてきている。少数だが。それを思うと、まだまだと思う人も多くいるだろうし、お金に余裕があればそれこを諦めるタイミングを見失うこともある。

その結果、1000万以上つぎ込み、タイミングを見失って、不妊治療を受けることがある意味、ライフサイクルになり、ますます抜け出せなくなっている女性も多くいるという話しをきいた。またある人は、年齢的に厳しく、最後の治療で授かった子供に障害があることがわかったが、障害があっても子供がほしいという思いからお子さんに障害があっても産む覚悟をされた方もいた。また、不妊治療の影響で多胎妊娠となり、苦しみながら中絶を選択された方もいた。

みなさん、独自で考え抜き、独自で応えを出している。母親になる重責から逃げたい、それにつきると思う。

政府は不妊治療の助成に対し、緩和する方向で調整している。お金も大事だが、女性のメンタルをカウンセリングするシステムはそれに追いついていない。ますます、女性に重責を負わせているのではないかとさえ、感じてしまう。この政府のやり方には。


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