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小説「波の間にルーズボール」

あらすじ

夢なんてなくても、仕事はする。
しなくてはならない。
でもなんのため?誰のために?なにを?
コンサル激務に負けて、地元に帰った菜切。クジラが来るようになった島。移住プログラムを担当する同級生。カフェをつくった恩師。違う人生を辿ってたまたまここに来た女性、みゆりさん。
成り行きで移住プログラムの手伝いをすることになった菜切。どこで生きるか。なぜそこにいるのか。なにをするのか。わかりやすい、はっきりしたタイミングはなくても、ちょっとずつ人生は決まっていく。そんな「誰か」と関わりながら、自分の「はたらく」を取り戻すお仕事小説。

作品本文

夢なんてない。

昔も今も、なかった。小さい頃から節目節目で書かされる将来の夢。作文にはキラキラと思い描いた理想の未来を並べてきたけれど、どれも飾りだったし。そのときどきで人気の職業を書けば、同じ輪のなかにいられるし。それで十分。
中学くらいからは社会の役に立つことを書いた。意義、意味、平和。そんなのをゴールにおいて、間に身近なエピソードを置く。ひとすじの道ができるようにつなげる。書く。いまのわたしは未来を向いている、ように。それだけで褒められたし、だいたいそれで満点花丸内申点ゲットだ。
そういえば、唯一高校のときだけ「ほんとうにやりたい何かが、見つかるといいですね。」と返ってきたことがある。点数は満点。なのに赤字あり。何を書いたのかは思い出せないけれど、たぶん社会に役に立ちそうなものを選んで書いたはず。
そうだ、担任だった古文の鳴見先生だ。見つかるといいですね。なにそれ。別に、やりたいことなんてない。なくても別に成績には変わりないし。

夢があるほうが偉い。そうだろうか?そんなに大切なんだろうか?4年に一度テレビに溢れる、まだ幼い顔。顔。顔。将来の夢はオリンピックに出て金メダルです。考え方も考えられない頃からひとつの競技に打ち込んで一番に輝く、なんてストーリー。挫折。栄光。成功した人だけの放送。そんなアスリートの特集を見て、すごいと思うが偉いとは思えない。何がすごいかって、ただ同じことをずっとできるのが怖い。その情熱は、きっと本物なんだろう。でも、あまりに小さい頃からやらされてるを見ると騙されてるんじゃないの?って気がしてしまう。他の可能性の芽を摘んだら、道は一つしかない。リソースの集中。それは自分の選択だったんだろうか。

「御社が実現したいものを、教えていただけますか?」

就活は、一番給料がいいところを選んだ。一番わかりやすい理由で決めた。入ったのは企業向けのコンサルティング会社。業界大手、売上規模は国内市場で第三位。名前は誰でも知ってるが、何をやってるかはほとんど知らない。激務だが、余計なことを考えずにすむから好都合だった。
最初は新卒初任給のレートを同期と探り合ったり、大学の友だちと名刺を交換するとマウント取れたりしておもしろかったけれど、忙し過ぎてすぐに忘れた。毎月25日に通帳を記帳するくらいがたのしみだった。数字はただの数字で、楽だ。

挨拶。提案。ヒアリング。ゴールを決めさせて、道をひく。必要なものを揃える。中に入って組織のしくみを理解する。決裁の流れを明確にする。要所要所で手を打っていく。やることはシンプルだが、相手には複雑に見せておく。やればやるほど作業が生まれる、ように仕向ける。仕事が仕事を連れてくる。なるほど、これは構造的に激務だ。
最初は中小企業のクライアント、それからだんだん大企業相手を任されるようになった。ある程度目処が付けば、契約更新の時に後輩に引き継ぐ。クライアントには新たな視点でとかなんとか、後輩には経験のためとかなんとか、でも結局みんなコストのためだってわかってる。会社の指示で案件を取れない同僚に渡すこともある。別にどっちでもいい。やることは同じだ。

斬新な提案、独自の視座。今までにない分析。はじめはそんなふうに企業を変えていく仕事だと思っていた。違った。もちろんそうなるときもある。でも、ほとんどそんなの求めていない。「みんなわかってるのにやれないことを、嫌な顔をされてやる」のが仕事だった。中からは変えられないもの。お金を出して外から言わせて、やっと動けるもの。企業の規模が大きくなるにつれ顕著だ。毎日電車に揺られ、終電を検索し、ため息を飲み込んでいるうちに、気がつくと5年が経っていた。

「いやぁ、さすが。これでうちも生まれ変わるようです。ありがとう。」

今期、取り組んできた大型クライアントの期末レビュー。ネームバリューの大きい、知らない人はいない会社。職歴の一行目に書ける功績。これまでで一番大きな受注だった。金回りがよくて体質が古い。だから、始めたてのダイエットみたいに改善することも盛りだくさん。愚鈍。やればやっただけ、目に見えて効果も出ている。ここまで相手側のウケもいい。売上規模は数千万円、コストも考慮すれば億単位の改善プロジェクトだ。来期も契約更新になるだろう。
ふだん顔を見ない会長も参加してて少しピリついた空気があったけど、蓋を開けてみれば上々。このまま問題なく終われそうだった。でも。

「ありがとうございます。数字はよくわかりました。それで、うちのお客さんたちは満足したんだろうか?」
「えっ、ああ。はい。それは……。」

ニコニコ柔和なおじいちゃん。会長の一言に、ことばが詰まる。満足したんだろうか?データは?裏付けは?ええ。それはですね。マウスを繰る手が速くなる。よどみなさ。それはこの仕事で一番必要な信頼の証。詰まるのはイコール理解できていないという証拠だった。致命的だ。
でも、とっさにクライアントのプロジェクト担当が「社内でも業務効率の面で非常にやりやすいとの声も多く……」と話題を変えてくれた。同調。つづきまして。時間切れ。そのままレビューは終わり、オンラインミーティングの画面を閉じた。息を吐く。よかった。それでも会長のことばはサビを繰り返しながらフェードアウトする曲みたいに離れない。数字はすべて、結果を示しているのに。

「満足したんだろうか?」

「いやぁ、うちの会長、余計なことを言っちゃってねぇ。すみませんね。来期もよろしくお願いしますよ。」
「いえいえ、こちらこそありがとうございました。」

会長は現役を退いていて、決裁には直接関わらない。影響力も限定的。そのあたりは調べてわかっていた。わかっていたが。さっきのことばが頭に残っていて、歯切れの悪い返しになってしまう。

懇親会という名の打ち上げ。さっきまでオンラインで顔を合わせていたのに、わざわざそれぞれ電車に乗り、無駄に高い店に集まる。おしぼりの温度すら行き届いている類の煩わしさ。意味なんてない。慣例。慣習。領収書。慰労の傘を着た接待。結局のところ飲み会で、接待される側でもわたしは27歳で女だ。さすがにセクハラもパワハラもないけれど、話題にも気を遣い、遣われるのは酷く疲れる。
高級な料理もお酒も、砂みたいだ。栄養の味しかしない。なのに酔いは回ってきて、制御にも力を使う。無駄な労力。無礼講なんて最初に言い出したやつ、絶対に酔っ払ってただろ。
早く時間が過ぎて欲しい。なのに、盗み見る腕時計の針は遅々として進まない。いつもはあんなに早く回るくせに。

「菜切さんって。」
「はい。」

宴もたけなわ……と古風な挨拶の後、会の終わりに隣に座ったのはプロジェクト担当の平井さんだった。入社3年目。若手。今回のプロジェクトがこれまでで一番大きな業務だったはずだ。頭は切れるが、割り切りも早い。たぶん、この会社向いてると思う。先ほどの助け舟のお礼を伝えて、お互いにお酒を注ぎ合う。

「仕事、嫌いになったりしないんですか?」
「えっ、どうだろう。なんでですか?」

嫌いになったりしないんですか?ストレートではない言い回し。回りくどい気を遣った聞き方には、遠慮とやさしさが混じっている。ようは仕事嫌いですか?だ。

「……うーん、その。」
「すみません、答えにくいこと聞いちゃって。いつもお忙しそうだから、大変なんじゃないかなぁって。忘れてください。今日はありがとうございました。」

おーい!と呼ばれ平井さんは「では」と戻っていった。答えられなかった質問だけが、宙に浮かんだまま。しかたなく、残ってる泡を一気に飲み干した。

「近いので大丈夫です。今日はありがとうございました。」

タクシー送迎を固辞して駅まで歩く。都内のタクシー運転手は、当たり外れが大きい。会話を求められる系だったら最悪だし、領収書、もらうのも渡すのもめんどくさい。それに、少し夜風にあたりたい気分だった。
ホームの自販機で水を買い、ベンチでやっと酔いが追いついてくる。もともとお酒は強くない。けど、飲み方は学んだ。仕方なく。そういえば新人の頃一回だけお酒で失敗して、クライアントの担当者に駅で介抱してもらったっけ。後日、上司と頭を下げに行ったな。

「たのしいお酒でしたから。気にしないでください。私も飲みすぎました。」

あんなに怒られて、恥ずかしくて、情けなかったのに、もう名前も思い出せない。けど、仕事は誰かが引き継いでるはずだ。
プシュー。ドアが開いた。案内板を見ると、最寄り駅に着いている。いつ電車乗ったっけ?慌てて降りると、酔いはだいぶさめていた。ペットボトルを座席に置き忘れた。

改札を抜けて、通り慣れた道をたどる。大学の時から住んでいるマンションは駅から10分。引っ越そう引っ越そうと思いながら、めんどくさいが勝ってタイミングを逃してきた。たとえ酔っ払っていても勝手に帰れる。もうしばらくそんなお酒、飲んでいないけど。今はベッドとシャワーのためだけの場所だから、どうでもいいしどこでも一緒だ。コスト削減。効率化。慣れが一番楽なわけ。
ふと、踏切のそばの並びに目が留まる。コンクリート打ちっ放しのビルの一階。たしか、ここはカフェじゃなかったっけ?いや、その前は居酒屋。その前は、焼肉屋?もう思い出せない。今はテナント募集のビラとともにガランとしている。
店名も思い出せないカフェだって、誰かの夢だったのかもしれない。知らないけど。なんだか頭が痛くなってきた。また、酔いが回ってきたのだろうか。

そのまま帰って朝。かろうじてメイクは落としていたらしい。頭痛がひどい。そんなに飲んでないはずなのに。残務処理もない。今日は在宅ワークでもいいが、年次有給の消化を急かされていたのを思い出して上司にチャットで申請した。二つ返事で「お大事に」と返ってくる。そのまま脇に転がっていたペットボトルの水を飲み干し、ベッドに戻った。酷くぬるかった。

転落は一瞬だ。栄枯盛衰。ローリングストーンズ。落ちるという字が付けば、それは終わりってこと。転がりはじめてしまえば、自分では止めるすべがないのだから。キース・リチャーズは、たぶんまだ生きてるけど。
次の日も、起きたら頭痛がした。治まってなかった。それどころかひどすぎて吐き気もしてきた。「お大事に」上司からの同じ返事。受診。簡単な問診を終えて、心療内科を勧められる。「お大事に」受診。漢字が並ぶ読んでもわからない病名を言われる。読むのもめんどくさくて、診断書をそのまま人事に送る。「お大事に」さしあたりの引き継ぎ。タイミングがよかったのかメール一つで片付く。頭痛がひどい。目がチカチカする。漏れはないかな。お大事に。お大事に。お大事に。上司からもクライアントからも連絡はない。なかった。気になって、後輩にチャットを飛ばしてみる。「問題ないです。お大事にしてください。」お大事に。お大事に。お大事に。
コンサルは激務だ。だから、こういうことはよく聞く。同僚も先輩も、何人か見ている。でもまさか自分とは。まさかはいつだって、自分のところに来てはじめて驚く。食事。服薬。睡眠。あとは、なにをすればいいんだろう?ミック・ジャガーは、まだ生きてたっけ?
仕事以外は、まったく問題なかった。レジ袋いります。カードで払います。それください。生活も会話も問題なくできる。お腹も空く。牛丼大盛り汁だくで。卵もつけてください。持ち帰りで。食べる。寝る。おはようございます。今日は一日秋晴れの天気です。明日は冷え込むでしょう。おやすみなさい。7時のニュースです。トゥルットゥートゥー……、世界の何処かの電車で笑いながらお弁当を食べている男。家族に会いにいくのよ、という女性。乾いた土地。太陽。褐色の笑顔。だんだん時間がわからなくなっていく。充電の切れたスマホを拾い上げて会社に今後の相談をしたのは、午前3時だった。

「半年ですか。」
「そう。期間は任意だが、そのくらいは必要だと思う。」
「長くないですか?」
「戻るにしろ辞めるにしろ、少なくともそのくらいは休むべきだ。菜切。お前、今の自分のことわかってるか?」
「はい。」

返事をくれたのは、入社当時メンターについてくれた江嵜さんだった。そういえば、あのとき一緒に謝ってくれた上司も江嵜さんだ。今は順調に出世して本部長職。直接現場には来ないが、一番わたしたちに近い役員レイヤー。そのことばは重い。リタイア。消化不良で胃もたれする響き。キャリアの終わり。引き継ぎも残務も、もうない。というか、もともとなかったわけだけど。

「必要な手続きはこちらでやっておく。何かあれば直接個人のチャットでかまわない。いいか。」
「わかりました。」
「菜切、休めよ。な?」

酷く喉が渇いていた。なのに冷蔵庫は空っぽだった。ストックの水もない。スマホを持って近くの自販機まで歩く。朝の空気が肺に冷たい。ゴミ捨てする人。ジョギングする人。新聞配達のバイク。わたしの知らない裏番組。会社も仕事も生活も、ひと一人いなくなっても回るし誰も困らない。
自販機はキャッシュレス決裁ができないやつだった。ピッ。120円。しばらく繰り返す。デジタル表示を眺める。何事もなかったように消える数字。なんだよ、ケチ。こっちは喉が渇いているんだよ。こころで悪態ついたつもりが、口に出ていたのかもしれない。ブゥーンと戻ってきた新聞配達のお姉さんが目を丸くしてこっちを見ていた。

「あの、飲みます?」
「あっ、いえ……。」

チャリンチャリンチャリン。ピッ。ガコン。軍手で渡されたペットボトルの水。クシャッと薄いプラスチックがへこんだ。

ピピピピピ、パンパカパーン。当たり!もう一本!妙におめでたい電子音が朝の空気に響いた。

「えー、すごい!わたしこの自販機で当たったのはじめてです!」

お姉さんはあたたかいココアを選び、それじゃあと仕事に戻っていった。ブゥーンとバイクが遠ざかる。自販機はさっきと同じように白々しく立っていた。チッ。なんだよ。冷たい水をゴクゴク飲み干すと、渇きは消えたが芯まで冷えた。寒くてたまらない。小走りで家に戻る。ポストから試供品の新聞がはみ出している。開けるとバサッと手紙の束が落ちた。ほとんどがDMの類だろう。拾い集めて、逃げ込むようにエレベーターに乗る。

[家賃再引き落としのお願い]

やばい。忘れていた。給料口座にお金はあるけど、家賃の引き落としは大学のときの作った別の口座だ。めんどくさくて変更しないまま、ズルズルそのままにしていた。そういえば家の更新が来月だった気がする。家賃をネットバンキングで振り込む。手数料320円。振込は明日の取り扱いとなります。不動産会社からのメールを確認して、所定の口座へ更新手数料を振り込む。明日の取り扱いとなります。敷金礼金手数料。ここにいるために必要なお金。
残高を見る。イチジュウヒャクセンマン、えっと、何桁だろう。年単位で働く必要のないお金が残っている。なんでここにいるんだろう。わからない。大企業のクライアントがだめだったのかもしれない。スマートな細身のスーツも、お腹周りが目立たない仕立てのいいスーツも全員同じに見えたし。3,000円ランチからポケットに手を突っ込んで出てくるおじさんたちに負けたくなかった。負けられなかった。100円のコンビニコーヒーをすすりながら、がむしゃらにやった。働いて、働いて、働いて、その先がこれだ。シュート。ゴール。試合終了。おしまい。
赤緑黄色青。カラフルなアイコンをタップして、不動産会社のホームページを開く。あなたの街の〇〇不動産。住みよい暮らしを応援します。問い合わせフォーム。お問い合わせはこちら。よくある質問はこちら。答えはない。探しても、見つからない。
そのままさっきの口座に違約金を振り込んで、家を引き払った。

「涼子、朝よ。起きなさーい。」
「……はーい。」

寝起きの体を引きずり、ダラダラと鏡の前に立つ。肌荒れが酷い。さいしょに気がついたのはそれだった。
家を引き払ってすぐ、人事から連絡が入ったのだろう、緊急連絡先に登録していた父から電話がかかってきた。諸々伝えると、翌日には母が来た。家具も服もぜんぶ必要ない。スーツケースに収まるだけ生活用品を詰めて、電車に乗り、飛行機に乗り、車に乗り、なつかしい玄関に座り込む。道中、母は何も聞かなかった。「おかえり」父もひとこと言ったきり、もう2ヶ月が経つ。
朝になれば、起こされる。夜になれば、おやすみなさい。だんだん時間がわかるようになり、体重も増えた。というか、増えすぎた気がする。

「遅い。寝坊よ。」
「ごめんごめん。」

時間に追われることもないのに、つい謝ってしまう。食卓には目玉焼きがのったトーストとパリッと焼いたウインナー。スクランブルエッグ。全体的に朝の匂いがしていた。卵、多いな。冷蔵庫を開けてコップに牛乳を注ぎ、飲み干す。

「今日は一日、付き合ってもらう約束でしょう?」
「そうだっけ?」

情報番組を流し見してると、母が「10時には出るからね」と急かしてくる。そういえばそんな話をしたっけ。父は食べ終えた分の食器を洗いながら、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。ガリガリガリ。ブゥーン。朝の匂いに香ばしさがプラスされる。

「今日中にすませないといけないんだから。」
「なんだっけ、島カフェ巡りだっけ?」
「そう。あれよ、バスケ部のまっつんくん。涼子いっしょだったでしょ。覚えてる?あの子いい子よねぇ。役場の地域課で企画したんだって。」

松田松太朗。まっつん。まつ松。松田くん。離島の学校なんて1クラス30人、忘れようがない。たしか高校を出てすぐに町役場に就職したはず。いわゆる地元組のひとりだ。

「すずって、なんか冷てぇやつ。」

ついでに余計なことも蘇ってくる。これは、いつだっけ?えっと、そう。バスケ部の大会のときだ。島内2校で、勝ったほうが都大会予選のために島外遠征に行ける。部活動最後の集大成。引退試合。最後の年、わたしたちは男子も女子も負けた。
さすがに「どうせ負ける」とは思ってなかったけれど、ベストのパフォーマンスでも勝てないだろうとわかっていた。だって、男子は直前に主力ふたりが顧問と揉めてサッカー部にいってしまい、女子はレギュラーのうち3人が生理だった。どうしようもない。今なら何か手を打てただろうか。悔しさはあったが、納得してたし涙も出なかった。

「なんか冷てぇやつ。」

みんなが泣いてるなか、ひとりどんどん片付けをしてたとき投げつけられたことばだ。なんかってなんだよ。わかるでしょ。あんたもわかってたでしょ。そのときわたしは反論したっけ?涼子だから、すず。小さい頃から馴染んだあだ名が、そのときから嫌いになった。
まっつん。まつ松。松田くん。松田?10年も経てば、あだ名で呼べばいいのか名字かくん付けか迷ってしまう。わたしは上京側だから、たまの同窓会ではなんとなく疎外感だったっけ。地元組はよく集まってるみたいで、思い出話は密度も鮮度も保たれたまま。だから、向こうは気兼ねなくあだ名で呼んでくるだろう。すず。松田くん。松田?そのズレを非難されてるみたいで、いつしか同窓会のお知らせはその他大勢のDMと一緒の扱いになっていった。

「モニター頼まれたのよ!わたしってば、忙しいんだから。」と母はふふっと笑った。
なにかしてないとボケちゃうからと、定年退職してからの母はほんとに多忙にしていた。週2スーパーのレジ打ちパートに、教育委員会から斡旋された学校相談員。ババさんバレー(ママさんを引退したシニアバレーチーム)の主催。方言で演じる地元劇団。なんだかんだで、ギリギリ週休2日のスケジュール。この日曜日にカフェ巡りをやっつけるつもりらしかった。
父はといえば、今まで仕事一筋だった反動なのか家事全般が楽しいみたいで、庭に畑をつくったり土いじりをしたりしながらゆっくり過ごしている。このあたりは分担を話し合ったらしい。
「ゆっくり回ってきなね。」コーヒーのいい匂いがして、カップに3つ、ちゃんとソーサー付きで置かれた。少し薄めで飲みやすかった。

湿気が多くて曇りばかり島だが、窓の外はめずらしく冬晴れ。気持ちのいい天気だ。なのに、体が重い。「10時には出るからね。」シャワーを浴びたかったが時間がない。顔を洗って、最低限のメイクをする。東京じゃ仕事以外ではしなかったな。マスクもあるし、どうせ会う人はみんな背景だ。2度は会わない背景。だから、どうでもよかった。
でも、ここではさすがにサボれない。小さな輪。〇〇さんのところの娘だの、〇〇の同級だの、名刺に書かれない役職が勝手についてくる。近いぶん、だるい。
歯磨きをしながら、観光マップをざっとながめる。「ようこそ島カフェ巡り!スタンプ10こでノベルティをプレゼント」よくある企画だが、デザインはしっかりしてる。へぇ。こんなにカフェだのレストランだのあったんだ。えっ、10こ?

「ねぇ、これ。一日で巡るやつじゃない気がするんだけど。」
「いいのよ。それをやるのが、たのしいんじゃない。」

車のキーを人差し指でクルクル回しながら、母はまた笑った。まじか。

いらないものは、忘れていく。必要なければ、なくなる。東京に出て真っ先に使わなくなったのは、車の免許だった。大学でも数回、就職してからはまったく車を運転した記憶がない。電車もあるしバスもくる。困ったらタクシーもある。不便は感じなかった。免許はすぐにただの身分証になった。
しかし、この島では必要だ。電車はないし、バスは一時間おき。車がないと生きていけない。だから、みんな徒歩10分でも車で行く。東京よりも歩かない暮らしだ。せっかくだし一度運転してみようと思ったけれど、すっかりペーパーだった。感覚が抜けている。いちいちぜんぶ操作を考えないとできなくて、流れるように諦めた。無意識を考えだすと、酷く疲れる。自転車とは違うんだな。それからは助手席が指定席だ。何にも考えずに、左側に回る。

「まったく。今度練習しなさいね。」
「いいよ。」
「もったいないじゃない。」
「別に。」

パタン、とドアが閉まりエンジンがかかる。ブゥーン。すっかり役立たずの自分をワンボックスの狭いシートに沈めると、景色がぼーっと流れていった。あそこは潰れたのよ。へぇ。〇〇ちゃん家は引っ越してあっちに。へぇ。道路拡張でこの道沿いだいぶ変わったの。はいはい。〇〇くんはこの間東京から戻ってきたらしいわ。へぇ。小学校は建て替えして綺麗になってね。そう。
小さい街のささいな歴史。社歴や変遷なら一行にも満たない変化が、バックミラー写ってはどんどん過ぎ去っていく。何人かの〇〇くんと〇〇ちゃんは顔も思い出せなかった。

「次で、えーっと。5軒目ね。」

スタンプ4つ。コーヒー4杯。空港近くのにぎやかな通りで4つカフェをまわり、お腹はタプタプだ。途中でランチも食べた。胃が重い。どれもそれぞれにこだわりがあって、棲み分けされていた。狭い地域だし、競合しても仕方がないということなんだろう。
水平線に抜ける大きな坂を下り、海沿いの道を走る。窓を開けると、潮の匂いがしてなつかしかった。

「ちょっと!飛んじゃうじゃない!」

あわててシート脇の観光マップを掴む。スタンプ4つ。地図に点々と書かれたカフェ。まわってみると、なかなかよく練られている企画だった。ルートもいいし、メニューの紹介もわかりやすい。それに、こういう観光企画はいかに脱落を防ぐかが大事になる。迷ったり見つらなかったりもたのしいが、一定超えると作業化するから。
しかも、地方ではグーグルマップが役に立たないことが多い。そんなに頻繁に更新されないし、道も細かいから辿り着けないからだ。そのあたりを「迷ったらココへ!」って、わかりやすい通りの店舗に顔つきで名物おばあが載っていて、上手に拾いつつ交流につなげている。導線設計がうまい。
ついつい仕事のように考えてしまい、だんだん頭がチリチリしてきた。息を吐く。マップをシートの間に挟み直し、窓の外を眺める。沈む。いい天気だけど、波は高い。荒れた海。岸にぶつかってしぶき高くなるたびに、潮の匂いが流れていく。

「そろそろ3時ね。」
「やっぱりこれ、一日だと無理だよ。」
「そうねぇ。でも最近は一泊とか、短い旅行の人も多いから。5こずつ分けてもいいかもね。」

なんだ、ちゃんと考えてたんだ。「メモに書いておいて」と言われ、ダッシュボード上のバインダーを掴む。氏名、年齢、満足度。1~5番の丸チェック。このあたりはお役所っぽいな。一番下、気がついたこと欄にメモしておく。チリチリ。字が荒れてイライラする。努めて深呼吸。大丈夫。大丈夫。

「次はほら、鳴見先生のところよ。高校の。」
「へぇー。鳴見先生、お店やってるんだ。」
「いいとこよぉ。わたし、常連だもの。」

海沿いから一本通りを曲がり、風よけの雑木林に入る。急に暗くなり、舗装された道路からがたがたと砂利道になる。木漏れ日がキラキラとしてて綺麗だけど、海風で揺れが強く、ちょっと不気味さのほうが勝つ。登り道を進んでいく。がたがた。トンネルを抜けると、なんだっけ。この島には、数十年に一度しか雪は降らない。雪の前にトンネルがあればジブリだっけ。高台に抜けると、一気に視界が開けた。

「ね。すごいでしょ。」

森の先には、車2台分の駐車場とログハウス調のカフェが建っていた。落ち着いたカラーで、新しいけれど風景に馴染んでいる。へぇ。かわいい。鳴見先生のイメージからは想像できないお店だった。エンジンを切って、バタン。
入り口にはシンプルだけど、よく手入れされたガーデニングと看板。へぇ。階段を数段登り、木のドアを引く。カランカラン。

「いらっしゃいませ。」
「あら先生、お世話さまです〜!」

もう先生じゃないですよ、いえいえそんなそんな〜。いつもありがとうございます。おなじみらしいジャブを打ち合うふたりに続いて、カウンター席に座る。お客さんはわたしたちだけだった。天井が高い。空調の大きなファンがゆったりと回っている。

「涼子さん、お久しぶりです。」
「あ、はい。ご無沙汰してます。」
「帰ってきてるんですって?」
「え、はい。あの、ちょっと……。」

ちょっと、には触れず、先生はニコニコと「何にします?」とメニューを渡してくれた。

「えっ。ここ、先生が建てたんですか?自分で?」

トイレから戻ると、ジャブの打ち合いは終わっていた。セコンドでやり過ごすつもりが、とんでもないストレートが飛んでくる。すごいでしょう!となぜか誇らしげな母の後ろ、カウンターの中で鳴見先生が目を細める。柔和な線目は変わらない。シワは、やっぱり少し増えた気がする。

「え!?この……これを……?」
「ええ。ぜんぶではないですけど。今井くんのところのお父さん覚えてますか?工務店の。その紹介で大工さんとか職人さんたちおもしろがっていろいろ教えてくれまして。5年ちょっとでしょうか。」

家って建てられるんだ。自分で。カウンターにテーブル席。床も木目で統一されていて、吹き抜けと階段の上にはテラスもある。すごい。まあ、落ち着いて考えればどんな建物も誰かの手がつくってるのだけど、手作りと言われるとやっぱりびっくりする。

「こんなんじゃ先生、風で飛ばされちまうよって言われて、いったん地ならしからやり直したりしてね。知らないことばかりで、たのしかったです。ようやく昨年、ここもオープンできて。」

どうぞ、と平たいプレートにチーズケーキ。添えて置かれたカップからコーヒーのいい香りが上ってくる。さっきトイレに行っている間に注文したのだろう。
「ここはぜったいこれよ。すぐに売り切れちゃうんだから!」フォークを宙にくるくる回しながら、母がまた謎に自慢げに笑う。すーっとフォークを入れる。しっとりとして、ほどよい酸味。そこからやさしい甘みがほどけていく。たしかに、おいしい。

「……おいしいです。」
「よかった。ありがとうございます。」

世間話が第2ラウンドを迎え、手持ち無沙汰に階段を登る。手で建てたと聞くとギシッと空耳する気がして、でもあたり前だけど一段一段しっかりしていた。コツンコツン。ドアを開けてテラスに出ると、小さなテーブルと椅子が一席だけ海に向いて置いてあった。
あんなに荒れていた波も、ここまで離れれば白いなみなみ。うねうねとやってくる線はゆっくり近づいてきて、手前の防風林に隠れて見えなくなる。

「ここ数年は、クジラが来るんですよ。」

さっき先生が教えてくれた話を思い出す。黒潮。温暖化。海流の変化で回遊ルートが変わったとかなんとか。ホエールウォッチングは、新しい観光資源として期待されているらしい。へぇ。あの何処かにクジラがいるのか。まあ、世界中どこから海を見ても、結局はそうなんだけど。
よく目を凝らしてみても、波の飛沫は遠くのもやでしかなくて、わからない。冷たい空気が鼻を抜けて頭がキンとした。上着を持ってくればよかった。

「そろそろ行くわよー。」
「はーい。」

「先生、ごちそうさまでした」ポンッとスタンプひとつ、5つ目。ていねいにお辞儀する母と「またいらしてくださいね」という先生。常連というのは、本当だったらしい。

「あ、そうだ。涼子さん。」
「え? あ、はい。」
「来週の日曜日。夜は空いてますか?」

ここは週末だけバー営業をしていて、次の日曜日には移住プログラム参加者の交流会があるらしい。いつもは手伝いに入るんですが、どうしても外せない用事がありまして。よければお手伝いいただけないでしょうか?……えっ、なんでわたし?

「移住プログラムは、松田くんが取り組んでて。東京も知ってる涼子さんなら、いろいろお話できたらいいんじゃないかなって思うんです。」
「あら、いいじゃない!あなた暇でしょ、暇。」

げっ、松田……とこころの声を抑えている間に「よろしくお願いします〜」と母が快諾していた。ありがとうございました、またお越しくださいね。カランカラン。外に出ると風も冷たくなってきた。バタン。助手席のドアを閉め、窓も閉める。ラジオがハイテンションに4時を告げる。トラフィックレポート。首都高が渋滞。しらじらしい保険のCM。胃のあたりが気持ち悪い気がしたが「さすがにコーヒー、飲みすぎたわね」という母のことばが塗りつぶしてくれた。まあいいか。たしかに暇だし。そのうち断る理由も見つかるだろうと、シートに沈んで考えるのをやめた。

考えないうちに、日曜日が来た。来てしまった。
こころと反比例して天気もいい。ダラダラ過ごしながら、気がつけば窓の外が暗くなっていた。やばい。天井を見つめる。いっそこのまま寝ていようかな。

「遅刻するわよ。」

忘れてましたで通そうとするところを、母に封じられる。最強リマインダー。マネジメントが鉄壁だ。オリーバー・オカーンだからね。まじでくだらない。ツッコミがわりに、のっそりと起き上がってしまった。はぁ。しぶしぶ歯磨きをして、しぶしぶシャワーを浴びて、しぶしぶメイクして。しぶしぶと車で送ってもらった。ドナドナされる迷える子羊の気分だった。あれ、子牛だっけ?どっちでもいい。

「あ、今日はどうもありがとう。すずちゃんよね。わたし、みゆりです。よろしくね。」
「あ、はい。どうも。」

二度目のドアを開けると、美人がいた。美人がエプロンをしている。どこかで見た気がするけれど、どこだっけ?思い出せないけれど、これだけ美人だとそんな気がしてくるものかもしれない。くるっと髪をまとめ上げ、ニコニコとこっちを見ている。

「あの、松田……くんは?」
「松田くんなら、みんなの家まわって送迎。マイクロバス出してるんだ。もう少しで来ると思うよ。」

手渡されたエプロンを腰に巻きながら、やることを教わる。今のうちに説明しとくね。ぶっちゃけそんなに大変じゃないから、ゆっくりやろうね。軽食はここ。始まればみんな好きに食べると思うから、何かあったら声かけて。お皿とかお箸はここから好きに出して。お酒の注文があったらわたしに伝えてね。できたら声かけるから運んでね。あとは交流会だし、気楽に話してれば大丈夫。

「ありがとうございます。」
「こちらこそ。いつもは鳴見先生が手伝ってくれるんだけど、まあメインはおしゃべり担当ね。」

ふふふっと笑う口角が綺麗だった。気を遣ってくれてるのか、いろいろ話しかけてくれるけど会話が続かない。ひとこと。ふたこと。リアクション。おわり。広がらない話題。間に役割とか仕事が置かれてないと、わたしってこんなに話せないんだなぁ。止まった時間が、重たい空気になってとどまる。

「……あの、みゆりさんは島の人じゃないですよね?」
「うん。そうだよ。一昨年かな、移住プログラムで来てさ。週末はここでバーのお手伝いしてるの。」

移住プログラム。引っ越し費用と家賃の補助。住むにあたってのもろもろの手伝い。仕事の紹介。斡旋。そんな感じに2年間お試しで生活してもらって安定した移住を目指す施策、らしい。その一環で隔月の交流会を開いて、困りごとやヒアリングをしているそうだ。ようは、ガス抜きの場ってやつだろうか。なんだか、めんどくさくなってきた。

「なかなか、うまくいかないみたい。みんな2年待たずに帰っちゃうのよね。」
「まあ、狭い社会ですし。やっぱり、その、やりにくいんじゃないですかね。」
「うーん、そうかも。」

やっと会話が続いたと思ったら、カランカランと呼び鈴が鳴った。

「みゆりさん、遅くなっちゃって。お、すず!久しぶり。今日はありがとうな。」

ほらね。やっぱり。気兼ねなく呼んできて、距離なんかないみたい。見慣れないスーツ松田くんに、7〜8人の人が続く。へぇ。ご夫婦。カップル。ランニング好きそうなお姉さん。大人しそうな青年。ご年配に派手な女子。名字もバラバラ。いろんな人がいるんだ。交流会も何回めかの開催らしく、なんとなくそれぞれ自分の席というか立ち位置が定まってるみたい。はじまってみたら、言われた通りみんな好きにおしゃべりしてるし、お願いされるまま注文とったり、運んだり。30分も経ったら、やることがなくなった。

「すずちゃんは、東京?」
「いえ、島の生まれです。」
「へぇ。」
「俺たち同級生なんすよ。」

松田くんは、このあとまた送迎があるのだろう、ウーロン茶片手にテーブルを回って会話を盛り上げたり聞き役をしている。へぇ。なにげにしっかり仕事、してる。ユーザーボイス。改善。修正。ついつい考えてしまい頭をふる。違う違う。これはただの、飲み会だし。
なんか、もっとギスギスした雰囲気なのかと思ったら、意外といいじゃん。こんな狭い世間に入るんだから、めんどくさいことめちゃくちゃありそうなのに。けっこう和やか。生活の話。趣味の話。仕事の話。これどこに売ってます?とか、あれ困ったんですけどどうしました?とか。

「それなら〇〇商店がよく扱ってますよ!」
「そっすねぇ……。たしかにあそこに頼むとちょっとクセあるかもっす。」

松田くんはうんうんうなづきながら、キチッとメモを取っていた。名前も顔も覚えきれないまま、立ったり座ったりしているうちに2時間があっという間に過ぎていった。

「じゃあ俺、みなさんを送ってくるんで!」

いやぁ、ありがとうございます。今度は別でも飲みいきましょう!ははは。おやすみなさーい。
少しの酔いとぬるい温度を残して、参加者たちは帰っていった。

「すずちゃん、お疲れさま。ほんとありがとうね。助かったよ。」
「いえ、なにも。」
「何か飲む?」
「あっ、いただきます。」

なにかつくる?ビールでいい?渇きもあってついビールで、と答えていた。オーケー。静かに注がれたビールは、さっきまでのジョッキではなくて背の高いグラスだった。泡がすごくきれいで見とれてしまう。
いつぶりだろう。スーッと喉を抜けて、甘い香りがした。

「おいしい。」
「いい飲みっぷりね。よかった。」
「これ、なんてビールですか?」

IPA。ほのかに柑橘。レモンの香り。コトっと瓶をグラスの横に置いてくれた。農夫みたいなおじいさんがにこやかにこっちを見ている絵。ビールなんて付き合い用の飲みものだったから、なんか新鮮だな。写真、取っておこう。

「おなかすいてる?なにかつくるね。余りもの、つまんでて。」
「あ、はい。」

軽食の残りをパクつきながら、ぼーっとカウンターの中のみゆりさんを見る。キッチンスペースで動くたび、まとめた髪が右に左に揺れる。なにつくってるんだろう?パスタかな?オリーブオイルとにんにくのいい匂いが届いてくる。

「みゆりさんって。」
「うん?」
丘百合みゆりさん、ですよね?鳥取の方のお生まれですか?」

よく知ってるね!だいたいおかゆりって読まれるんだけど!シャッシャッとフライパンを振るうしろ姿が笑顔で答えた。

「なんていうか、仕事がら人の名前とかよく調べたりしてて……。」
「ふーん。」

ほとんどもう元ですけど、とふてくされたようなことばが浮かんできて飲み込んだ。いや、飲み込んだつもりで口に出てたかもしれない。久しぶりのビール。ちょっと酔いが回ってきたかも。喉渇いてたしなぁ。口もすべる。みゆりさんはそれには触れずに、よっとフライパンからパスタを二皿盛り付けて、なにやらいっぱいかけている。

丘百合みゆり綾子。綾って書いてりょうこ。名前いっしょよね。すずちゃん方式なら、あや、かな。」
「……あやさん。」
「そうそう!はい、どうぞ。」

オリーブオイルとにんにく、アンチョビ。あとは残ってた明日葉のおひたし。クセの強い島の名産。よく給食に出たなぁ。小さい頃は苦くてあんまり好きじゃなかったのに。パスタにしてもおいしいんだ。知らなかった。

「……うま。」
「でしょう?これ、めっちゃオススメレシピなの。」

コツはね、これ多くない?ってくらいオリーブオイル使うのと、それっぽいスパイスをこれでもかってかけること。ふんふん。それならわたしもできそうな気がするな。

「わたし、なにかつくるとどうしてもお酒のつまみになっちゃうのよね。」
「うわ、たしかに。これめっちゃ合いますね。どうしよう。」

ゴクリ。ビールが進む。フォークをくるくる回しながら、みゆりさん……あやさんは、いいねぇ!と笑う。パスタはすぐに空になった。ごちそうさまでした。はい、おそまつさまでした。今度うちでつくってみよう。
おかわりを注いでもらい、なみなみと上がっていく泡を見つめる。なんだか吸い込まれそうな琥珀だ。カランカラン。冷たい空気といっしょに、松田くんが戻ってきた。

「えーっ、みゆりさん俺もビール。」
「いいの?車でしょう?」
「いいっす、いいっす。代行頼むんで。」

えー、ずるい。わたしも相乗りしようかな。……いいっすよ。やったぁ!経費で落ちるんでしょ?……抜け目ないっすね。ふふふ。
飲もう飲もう!と、あやさんが自分の分もビールを持ってくる。お疲れ様ー!かんぱーい!腹減ったっすわぁ。残った軽食がトントン松田くんのお腹に収められていく。いい食べっぷりだな。すずちゃんはどうする?そろそろ変える?あ、お願いします。ハイボールはスッキリしていて、なんだろう。木の香り?海の匂い?がして、飲みやすかった。

〇〇さん元気だったっすね。そうねぇ。〇〇と〇〇くんは別れたらしいっすよ。えっ、そうなの?〇〇さんたちはこの間あのイベントに参加してたな。ふんふん。和やかに見えたけれど、人間関係はあるみたい。横耳で話を聞きながらぼんやりと思い出してみるけれど、ほとんどの〇〇さんは、もう顔も浮かばなかった。

「……なぁ、すず。」
「ん、なに?」

ぼーっとしてるところに、急に話を振られて大きい声が出てしまった。酔ってるのかな。まあいいか。おいしいし。で、なに?

「お前さ、あっちでコンサルの仕事してたろ?」
「……うん。」
「実は相談したいことがあって。ほんとは、先生にすずに声かけてもらうように頼んだの、俺。」
「……へぇ。」

なんだ。そっかぁ。なんとなく腑に落ちて、でも、もやもやするから、それといっしょに半分くらい残ってたハイボールで飲み干した。

「ただ、その前にちょっと聞きたいんだけど。」
「……なに?」
「相談料って、めっちゃ高い?俺、払えるくらい?」

仕事ならちゃんとしないと……と大真面目に聞いてくる松田くんの顔がなんかおもしろくて、吹き出してしまった。いや、高いよ?たぶん。案件規模にもよるけど。まじかぁ。
ちゃんとしないと、といったわりにお酒飲みながらだし。なにそれ。どうすっかなぁ……と悩んでる松田くんの背中が丸い。あやさんは、もう一杯、透明なグラスを置いてくれた。お水かと思ったら、シャワシャワしてる。おいしい。

「わたし、酔ってる。」
「うん?」
「酔ってるわね。すずちゃん。」
「はい。」
「だな。」
「だから、いいよ。話聞くだけ。ただ、その代わり責任もなし。聞くだけ。」
「まじ?いいの?ありがとうな!」

復活した松田くんは、かばんからなにやら資料を出してきた。封筒にクリアファイルにクリップ留め。分厚いな。めちゃくちゃ、頼む気だったんじゃん。ところどころに付箋がしてあって、そういうところやっぱり真面目というか几帳面なんだろうな。

「移住プログラム、うまくいってなくてさ。」
「そうなの?なんか別に、雰囲気よさそうに見えたけど。」
「そう。プログラム中はあんな感じで雰囲気もいいし、特に不満とかトラブルもないし。でも、これで5期目なんだけど、結局移住に至った人って数人なんだ。」

「そのうちの一人が、わたし。」っとあやさんがビールグラスを掲げる。なるほど。なるほど。移住したくてくる。しばらく生活もいい感じ。でも帰る。なんでだろう。

「へぇ、なんでだろうね。」
「人口の問題は大きいから予算もなるべく取ってるし、今はリモートワークもあるだろ?地理的な不利は減ってるはずだし、同じくらいの自治体と比べても、そこまで条件、悪くないと思う。」
「ふーん。」

資料をパラパラとめくる。四国。九州。伊豆七島。どこも同じような取り組みはあるんだな。交通の便でいうと、たしかに悪くない。この島は東京へのアクセスもいい。パラパラ。パラパラ。ダメだ、文字が情報として入ってこない。読んでも読んでも、通り抜けていくだけ。理解できない。

「ちょっと持って帰って、考えてもいい?」
「もちろん。ありがとうな。」
「まだ、なんにもしてないけど。」
「いや、考えてくれるだけでもうれしいよ。ありがとう。」
「……うん。」

「お仕事の話、終わった?」と、あやさんが笑いかけてくる。そっか。これ、仕事の話なんだ。仕事、か。でも、ふしぎと頭は痛くならなかった。酔ってるからかもしれない。
飲み直そ!と、もう一杯。そろそろ限界。なんの話してたっけ?松田くん?まっつん?みゆりさん。いや、あやさん!会長。満足したんだろうか?わからない。お水。自販機。家賃。東京。島。ぐるぐる。ぐるぐる。今何時だっけ?おいしい。琥珀。シャワシャワ。透明。パスタ。……眠い。

「涼子、起きなさい!スマホ、ずっと鳴ってるわよ?」

バッと飛び起きたら朝。あれ、どうしたっけ。……どうしてここにいるんだっけ?

「……あんた、くさいわよ。」

もうびっくりしたんだから。全然連絡来ないと思ったら、でろんでろんのあんたおんぶして、松田くんが送ってくれたのよ。ちゃんとお礼言っときなさいね。

最悪。

自分の体から発せられる二日目のアルコールの匂いで、気持ち悪さが戻ってくる。最悪だ。全身が奈良漬けみたい。くさ。ベッドの脇には書類の束とスマホが転がっていた。通知を見るとメッセージと着信が何件か入っている。

[昨日はありがとう。たのしかったね]
[今日、大丈夫そう?無理ならまたでOKだよ]

だんだん少しずつ思い出してきた。たしかあのあと、あやさんに移住者の話を聞かせてくださいとか、言った気がする。思い出す。たしかに言ってる。今日?早くない?そういうとこだけスピード持って対応するのは、抜けきらない性なのか。いやたぶんその場のテンションだな、これは……。

[すみません、いま起きました。大丈夫です。]
[じゃあ14:00に先生のお店でいい?]
[はい。よろしくお願いいたします。]
[じゃあ、あとでね〜]

いま何時だろう?えっと……11時半。とりあえずシャワー浴びよう。なるべく熱いシャワーで流そう。
なんにも考えずにお湯を頭からかぶって、やっと少し不快さを落とした。髪をふきながらリビングにいくと、母はもう出掛けていた。

「コーヒーでも飲むか?」
「いや、大丈夫。ありがとう。」

ダイニングテーブルに座る。なにか食べたほうがいいかと思ったけれど、さすがに食欲はなかった。父がお水を入れてくれた。一口飲んだら、食道から今まで何か剥がれて抜けていくみたいな感覚がする。一気に飲み干して、台所に行き、そのままガブガブと二杯飲む。いつ以来だろう。お酒、弱くなったな。ふぅ。ぜんぜん頭は回ってないけれど、とりあえず資料読んでみようかな。他の自治体の取り組むとまとめ。だいたい必要な施策は揃ってる。これは、アンケートかな。満足度4.3。不満はおおむねなし。なにか困ったことはありますか?相談しやすい環境でしたか?問題なし。参加も問い合わせも途切れずにコンスタントに入ってる。プロモーションもまあまあできてる。昨日話していた通り、見た目には満足している、ように感じる。でも、この先。移住には至らない。それはなぜか?これ、けっこうむずかしい問いかも。没頭して読んでるうちに、窓から差す光が小さくなる。「正午のニュースをお伝えします。」資料をまたくくり直して、かばんに突っ込んだ。

「送っていくぞ。」
「大丈夫。歩いていくから。」
「そうか。気をつけてな。」

考えをまとめたくて、あとはアルコールを抜くために歩いていく。坂を下り、海沿いの道を辿る。海からの風が強かったけれど、心地よかった。移住。生活する場所。支援。条件は揃っていても、なにかが違う。どこかに見えてない原因があるんだろう。
二日酔いの体はぐってり重たくて、何度も息切れした。かなり早めに出たのにギリギリだ。水が飲みたい。けれど、自販機もない。ただただ、道。海。空。んもう!吐きそう。最後には走って走って、高台をなんとか登り切り、ゼェゼェいいながら三度目のドアを開け放った。カランカラン。間に合った。

「あら、涼子さん。いらっしゃい。昨日はどうも。」
「先生、お水ください……。」
「すずちゃん、大丈夫?」

先生は笑いながら、グラスにお水を入れてくれた。あやさんの横、カウンター席に倒れ込むように座ってコップを飲み干す。遅めのお昼ごはんだろうか。あやさんはコーヒーと、サンドイッチを食べながら旅行雑誌を読んでいた。

「昨日たのしかったねぇ。」
「すみません。わたし、全然片付けとか……。」
「いいのいいの。たのしいお酒だったからOK。」

すずちゃん全然変わらないから強いと思って、こちらこそごめんね。いえ、そんな。
あやさんは全然変わらない。飲んでも飲まなくても、ニュートラルにこんな雰囲気だ。ちょっと、かっこいいな。

「すずちゃんは、なんかめちゃくちゃ仕事できそうだよね。」
「いえ、そんなそんな。」
「よく人を見てるし、ときどき言う一言がズバッ!って感じだし。」
「……わたし、なにかいってました?」
「わたしよりわたしの地元に詳しい女、って言われたな。」

それは、嫌なやつだな……。ははは、気にしないで。酔えるってことはこころが開いてるってことだし。まじで気をつけます……。
陽の光がたくさん入る大きな窓。キラキラと話すあやさんと、奈良漬けみたいなわたし。申し訳なさでどんどん背中が丸くなって、小さくなる気がする。

「でも、仕事ができる自分でずっといるのも、大変なんだろうなぁって。」
「……そうかも、です。」

カランカランと、他のお客さんが入ってきた。観光客かな?二人組の男女。いらっしゃいませ。こちらにどうぞ。先生が奥のテーブル席へにこやかに案内する。

「すずちゃん、ドライブ好き?ちょっと出ようか。待っててね。」
「えっ、でも。」

あやさんは少し迷った様子で、ゆっくり顔を近づけてささやいた。
「……(すずちゃん、少し、におう。)」
「……すみません。」

オッケーオッケーと、あやさんはカウンターの裏からマグ出してきてコーヒーを入れた。サンドイッチはラップに包んでエコバッグに放り込む。

「ごちそうさまでした〜。」
「先生、すみません……。」
「また来てくださいね。お気をつけて。」

どれにする?これめっちゃおいしそう!……なんてにこやかな会話をバックに、わたしは逃げるようにお店を出た。

「乗って乗って。あ、ルーフ開けるね。」
「すみません……。」

そりゃあ奈良漬けと密室ドライブはいやですよね。ほんとすみません……。あやさんがエンジンをかけていくつか操作をすると、ガコッとルーフが開きオープンになる。いい天気。真っ赤なスポーツカー。見慣れた国産のロゴなのに、左ハンドルだ。

「逆輸入の車なのよ。」
「へぇ。」

シートベルトがはまらずにカチャカチャしていると、「コツがいるの」と身を乗り出してつけてくれる。ふわっと、清潔ないい匂いがした。シャンプーと奈良漬け。左天国、右地獄。左右で世界が天地の差だ。シートは狭いけれど、すっぽりと体が包まれて、なんだか安心する。
気を遣ってくれてるのだろう。車はゆっくりと海沿いを走っていく。波の音。風を切る音。エンジン音。顔にあたる冷気と、おしりに響く振動が心地いい。ことばを切り出せないまましばらく走り、よしと、意を決して話しかけてみる。

「……あやさんは、」
「えっ?」
「あの、あやさんは、」
「えっ、なに?」
「あの!あやさんって!」
「ごめーん聞こえない!」
「……はい!」

海から吹き抜ける風は、会話を奪っていった。おかしいな。こういうの映画じゃ澄ました顔でおしゃべりしてるのに。嘘じゃん。ふたりで大笑いする。
少しずつスピードを上げたオープンカーはスイスイと空気を切り、山道に入った。木々が風を塞ぎ、会話が帰ってくる。

「この時間なら、峠から飛行機見られるかもね。」
「好きなんですか?」
「うん。なんかミニチュアみたいで、おかしくない?」

この山道は昔、龍が登ってできたとかなんとか、そういう言い伝えが残っている。入り口と出口の法面に丸い玉をくわえた龍の石絵が描かれていて、ちょっとした観光スポットだ。でもアクセスがそんなによくないのと、登っても景色を見るくらいしかやることないから、車通りも人通りも少ない。
あやさんは、ときどきドライブを兼ねて飛行機の離着陸を見にいくそうだ。山道はくねくねしていて、ブゥウウーンとエンジンをうならせながら登っていく。

「あやさんは、なんでこの島に来たんですか?」
「そうねぇ。」

沈黙。やることがなくてカーブを数える。ふしぎといやじゃない。話したくないのかもしれないし、ことばを選んでくれてるのかもしれない。どちらでもいい。7つ目のカーブを曲がってから、あやさんはぽつぽつと話しはじめた。

「わたし、東京でバーテンダーをしてたの。麻布の〇〇ってお店、知ってる?」
「えっ、知ってます。何回か行きましたよ。……接待でですけど。」
「そうなんだ。じゃあ会ってたかもね。あそこで働いてたの。」

たまたまコンクールで入賞したら、雑誌とかで特集されたりして。東京代表おしゃれな生活みたいな書かれ方されたり。コンビニで並んでる、わかりやすい間接照明のやつみたいなさ。誇張でもなく、嫌味でもなく、淡々とあやさんは口に出す。そうか。その横顔が整っていて、なるほどそうなるよなぁ……と納得する。

「お店、それなりの敷居だったから基本いい人ばかりなんだけど、ときどきちょっと引っかかるというか。セクハラまでいかないけれど、答えにくかったりさ。空気悪くしないように、ニコニコ流すわけ。仕事がら、これ、あたり前なんだけどね。」
「……わかります。たぶん。」
「ね。それで、ある日お店閉めて仮眠して、始発に乗ろうと歩いてたら思ったの。……なんか手が荒れてるなぁって。」

手入れもケアもしてたんだけど、なんか自分の手じゃないみたいだなって思って。ふと横見たら、ウインドウに写る顔、クマが酷いし。全然嘘だし。ぜんぶ偽物だし。投げつけられたままのことばが抜けない。帰るときに目が痛くなる朝日も、キラキラした世界のハリボテみたいな自分も、ぜんぶ嫌だなってなって。

「……それで、この島に来たんですか?」
「ううん。車買った。」
「えっ。」

ウインドウの奥に真っ赤なスポーツカーがあってさ。なんか無性に欲しくなって、そのまま店の前に座り込んで開店と同時に「これください」って。……めちゃくちゃひかれたな。

「……でしょうね。」
「でしょう?早朝お店の前に座り込んでる謎の女が、シャッター開いた瞬間に買います!だもんね。」

買います、待っててくださいって言って、ダッシュでコンビニいったら50万しか降ろせなくて。家帰って印鑑と通帳持って銀行に駆け込んで。なんかもう意地だったな。300万ちょっとだった。現金持っていくまで信じてもらえなくて、帰り際すごくお詫びされるわ、なんかノベルティめっちゃもらうわで、おもしろかった。
その日はなんだかすっごく気分がよくて、久しぶりにぐっすり寝られた。

「……それがこの車ですか?」
「そう。いい車でしょ。それでね。」

実際はそれからなんかいろいろ手続きをして、書類?とか。後日、納車に行ったの。わたしペーパーだったのね。最後に運転したの学生のときだったかな?何年も前だった。
だから、もうガッチガチ。何度やってもディーラーの車庫から車道に出られなくて、見かねた社員さんが道路まで出してくれて。「お気をつけて」って、たぶんこころから言われたのはじめてだったな。それで、住んでるマンションまで行こうと思ったんだけど、都内の道って複雑で怖いじゃない?しばらく慣れようと思って、人がいない方いない方に走って、走って、走ってたら、そのまま旅に出てた。

えっと、ちょっと脳がついていかないのは二日酔いのせいだけではないはずだ。そのまま旅に出てたって、そんなのある?

「たぶん、こころが疲れ切ってたのね。でもちょっとずつ運転に慣れてきて、どんどん進むにつれてたのしくなってきて、ああ生きてるかもって思ったの。」

ねぇ、東京で暮らしていると駅のまわりにしか世界がない気がしない?車で走ってみたら、駅と駅の間にも生活がたくさんあっておもしろかったな。カレーの匂い。醤油の匂い。お風呂の匂い。それから、山道でガス欠になってトラックの運転手さんに助けてもらったり、泊まるところ見つからなくってこのシートで丸くなって寝たら腰がめちゃくちゃ痛くなったり、道の駅で車上荒らしに鉢合わせしてとにかく叫んだり。わたし、こんなに大きい声出るんだって驚いた。
飲み屋や居酒屋、お酒関連のバイトってどこにでもあるからあまり仕事は困らなかった。遠くにいけばいくほど、わたしをみんな知らなくて楽だったし。

「着いたよ」と、あやさんが駐車場の端に車を入れる。ちょうど東京からの飛行機が着陸するところだった。少し遅れて、ゴォーっとエンジンが遠鳴りに届く。

「間に合ったね。」

ベンチに腰掛けて、間にビニール袋を敷いてサーモマグとサンドイッチを置く。一口飲む。熱くも、ぬるくもない。コーヒーはちょうどいい温度だった。

「地方にいくと、移住の話とかこういうプログラムってけっこうあるのよ。でも、なんとなくどこも期間限定だから大丈夫というか。やっぱり長めの旅気分なのよね。この島にもたまたま寄ったって感じ。」

フェリーに車を載せてみたくて、というまたなんとも直球の理由だった。見下ろした先で、飛行機がゆっくりと方向転換していた。しばらくしたら、乗客と荷物を載せ替えてまた飛び去っていくだろう。
あやさんは大きな口でサンドイッチをパクパク食べていく。見ているだけで気持ちいいが、わたしはさすがに食欲がなくてちびちびとコーヒーをすする。 

「なんで移住したかだったよね。まあ、まだずっと住むって決めたわけじゃないんだけどさ。さっきの峠の入り口のところ、あるじゃない?」
「龍の絵があるところですか?」
「そうそう。ここに来て半年くらいだったかな。やっぱりなんとなくいられないというか、別のところにいきたくなってきて。気分転換にドライブにきたの。そしたら、」

入り口のところで車がパンクしてしまったらしい。しかもボルトが割れていて応急修理も不可。都内ならJAFなりなんなり呼べばいいが、ここではそうもいかない。あの辺りは電波も悪いし。

「たまたま、モービルの龍一さん、わかる?」
「あ、わかります。中学の先輩です。」

バスケ部の2つ上の先輩で、粗暴というか喧嘩っぱやいというかトラブルの噂で有名だった。家の事情とかで、高校から島外に引っ越したはずだ。

「両親が離婚されて、いったんお母さんに着いていったんだけど。お父さんが亡くなって島に帰ってきたの。お店継いで、今二代目だって。」
「そうなんですか。」

わたしより島事情に詳しいあやさんは、すっかりここの人に見える。なんだか変な気持ちだけど、いやじゃない。

「龍一さんが、たまたま通りかかって。」
「へぇ。そんなエピソードが。」
「だと思うじゃない?あの人、なんて言ったと思う?」

「このクソ忙しいのに。女のくせにこんな車乗るからだ」って。びっくりでしょう?ほっこり島民ふれあいエピソードじゃないのよ。あやさんは怒りを思い出して、それを飲み込むようにコーヒーに口をつけた。

「うわぁ……。なんとなく、想像つきますけど。」
「わたし、それにブチギレちゃって。それからさんざん言い合い。初対面でなんでそんなこと言われなくちゃいけないの、何様ですか!うるせぇ!なによ!お前こそ!って怒鳴り散らして。最後には黙って待ってろってぽつんと残されてさ。まあ、あの人レッカーで返ってきて、そのまま乗せてくれたんだけど、人生一気まずいドライブだったな。」

考えただけで嫌な時間だ。わたしならぜったいに歩いて帰る。

「後日、車取りに行ったらたしかに忙しそうで。お父さんの仕事引き継いだばかりで全然回ってなかったのね。それからなんやかんや話していくうちに、まあ手伝ってやるかって思って。今はそこで働いてる。」
「まじですか。」
「うん。まじ。後から聞いたんだけど、どこぞの島外から来た生意気な女が調子乗った車で走り回ってるって噂になってたんだって。嫌よね、そういうの。」

でも面と向かって言われたのはじめてだったし。そういう言い方はよくないとか、どんな車乗っててもいいはずだとか。真正面からケンカできたのがなんだかうれしくて。それに後から彼、何度も悪かった俺が間違ってたって謝ってくれたし。変われるのって、いいじゃない?

「うまくいえないけど、なんとなくこれが今もここにいる理由って感じかな。あれで、ふしぎとここが自分の場所だって気がしたの。あのまま特に不満もなく過ごしてたら、やっぱり東京帰ってたと思う。」
「そう、ですか。」

制度も整備され、よく手がまわりて、気にかけて。満足5の不満なし。十分に整っている。しかし、整いすぎてると、自分の場所にはならないのか。なるほど。

「参考になりました。ありがとうございます。」
「そう?よかった。」

自分の場所、か。人はなにを求めて移住とか、するんだろう。なにが欲しくて、もしくは嫌で。わからない。でも、あやさんの旅の先がこの島でよかったな。なんとなく、そんなことが浮かんだ。
サーモマグから湯気が立ち上る。その先からゴォーっと音がしてくる。ミニチュアのような飛行機が、今、離陸して飛んでいった

そろそろ帰ろうか。無意識に左側に回ると、あやさんがいたずらっぽく笑った。

「運転してみる?」
「えっ。いや、違います。間違えました。」

いいじゃん、この時間あんまり車通らないし。やってみなよ。ポイッと車のキーが投げられ、迂闊にキャッチしてしまった。革のしっかりとしたキーホルダーと、なぜか数年前に流行ったキャラもののストラップがぶら下がっている。なんだっけこいつ。

どっちがブレーキでしたっけ?と聞くと、さすがに怯んだ顔をされたけど「いや、初志貫徹だから。」と、ていねいに教えてくれた。ハンドル。クラッチ。パーキング。カーステ。ワイパー。よし。もうどうにでもなれだ。保険は誰が運転しても大丈夫なものに入っているらしいし。

「……いきます。」

はじめはブレーキだのクラッチだのいっていたあやさんも、あきらめたのか後半は両手を握りしめて目を瞑りシートに沈んで祈っていた。ガッコンガッコン止まったり進んだりするたびに、小動物みたいにちょこんと跳ねる。ちょっと待って!はい!落ちる!ブレーキ踏んで!はい!なにこれ。あやさん、まつ毛なげぇ。前見て!すみません。落ち着いて!……ようやく峠を下り終えた頃にはすっかり夜が降りていて、ひやりと背中が寒かった。シャツが貼り付いている。心臓がバクバクする。

「……生きてる。」
「……生きてるわね。」
「代わってください。」
「もちろん。」

二人でひとしきり大笑いした。少し回り道して、ちゃんとドライブし直して、家まで送ってもらう。

「じゃあね。」
「今日は、ありがとうございました。」
「うん。またね。」

真っ赤なスポーツカーは、夜に気持ちいいエンジンを残していく。街灯の少ない道を都道に向かってスイスイ進んでいった。
すっかり二日酔いも抜けたらしい。なんとなく、車が見えなくなるまで手を振っていた。

「……整いすぎてる?」

松田くんにラインをしたら、すぐに「明日のお昼休み、先生のとこでいいか?おごります。」と返ってきた。
父のパソコンを借りて、久しぶりに資料をつくる。資料といっても要点をつらつら書き出しただけ。テーブルに置きっぱなしのノートパソコンは父いわく「うちで一番高価なインテリアになっている」らしく、セキュリティのアップデートに半日かかった。キーボードをカタカタしている時間より、そっちのほうが長かったくらいだ。
コーヒーを飲みながら、全然信用できない「あと何%何時間です」をながめる。ぼーっと考えをまとめる。二日酔いは残っていたけれど、ふしぎと頭は痛くならなかった。それから数日かけてレポートにまとめた。

渡した資料を真剣に読み込んだ松田くんは、ふしぎそうに聞いてきた。

「そう。整いすぎてる。厳密に言うと、不便さとか乗り越えるハードルが残っていないって感じかな。」

制度も仕組みも整っているのはいいことだ。アンケートの結果も満足がほとんど。でも、この結果は長い旅行や滞在の視点で答えられている。だから、固着できない。ある程度の不便さが残っていて、それを解消することではじめて生活が自分ごとになるんじゃないかな。参加者は減るかもしれないけど、選択肢や自主性に委ねる部分をもっととってもいいのかも。そのほうが、移住というターゲットには近づくと思うよ。
強いことばも断言もない。データも定量化もない。ただただ、つらつら考えを伝えただけだ。仕事だったらダメかな。ダメだろうな。でも、わたしの考えは、ある。入ってる。
松田くんは真剣にメモを取りながら、いくつかの質問を返してきた。どうだろう?わからないところは正直にわからないと答えて、松田くんの考えも聞いてみる。へぇ。なるほどね。そうかもね。それもあるかも。

「そっかぁ。不便さ、かぁ。それ、全然わからなかったなぁ。思い当たる節めっちゃあるよ。」
「中にいると気が付きにくいかもね。わたしもあやさんと話してかは、ちょっとわかった気がするし。」
「ありがとう。すごく参考になったよ。」

同級生なのにバカていねいにお辞儀されると、なんだろう。ドキドキしてしまう。

「まっつんはさ、仕事。好き?」
「えっ、どうだろう。」

急に、口から出た問い。浮いたままの、わたしはうまく答えられなかった質問。じっとこっちを見返したまっつんは、一口コーヒーを飲んで答える。

「中学のさ、バスケの最後の大会。覚えてる?」
「……うん。」
「あの試合の第2クォーターかな?リバウンドでルーズボールになったんよ。ボールが宙に浮いて、ゆっくりエンドラインに飛んでいって。」

今でも夢に見るんだけど、とまっつんは顔を反らしてさびしそうに笑った。

「俺、飛び出せば捕れたと思うんだ。だけどやらなかった。ほら、試合前からゴタゴタしてたじゃん?だから、どうせやっても負けるだろうみたいなのと、負けても別に言い訳もあるしってのが頭よぎった。」
「……そうなんだ。」
「結局ほんとに負けるし。たぶん後悔?してるんだよね。ちゃんとできなかった、やりきれなかった自分ってのに。すずにも酷いこと言っちゃったし。」

ほんとだよ、と冗談で返せるくらいには時間が経っていてよかった。「ごめんごめん。」と笑ったあと、ほんとごめんなって真面目に言い直すところ、変わってない。

「俺、この島好きなんだよ。生まれ育ったところだし、いいところもいっぱいあるし。だから、やれることはやりたいんだよね。自分にがっかりしたくないし。それで誰かの役に立つなら、まじでうれしいし。だからたぶん、仕事は好きだと思う。……あれ、これ答えになってる?」
「……たぶん。」

それから他愛もない話をして、昼休みが終わるまっつんは仕事に戻っていった。カランカランと呼び鈴が響き、ドアが閉まる。あと一口。残ったコーヒーはもう冷めていた。

「おかわり、淹れますか?」
「お願いします。」

冷めたコーヒーを飲み干し、カップを返す。新しい湯気がコポコポと注がれる。湿った温度と、いい匂いが立ち上ってきた。

「先生。」
「なんでしょう?」
「……うちの母に松田くん紹介したの、先生でしょう?」
「……はい。お節介でしたか?」
「いや。でも、こんな回りくどいことしなくても先生が直接言ってあげればいいのに。」
「そうですねぇ。なんていうか、あれです。ことばはどんなものかより、誰からかのほうが響くって、ありますから。」

たしかに、不便さを残すなんて答えには至らなかっただろう。ちょうどいい距離の外野、わたしくらいの位置だったから言えたことかもしれない。

「……それに。」
「はい。」
「いえ、なんでもないです。」

それに。それに先生は、わたしの先生でもある。
ことばは誰かからのほうが響くこともある、か。やってることは同じなのに、頭は痛くならなかった。なぜだろう。何が違ったのか、まだわからないけれど。

「そういえば菜切さん、私がなんで教員になったか。お話したことありましたっけ?」
「えっ、ないです。なんで先生になったんですか?」
「それはですね。」

洗い終えたカップを拭きながら、先生は笑いながら言った。

「お給料がよくて、安定してたからです。」
「へっ?」
「当時、一番お給料がよくて雇用もしっかりしてて。ほんとにそれだけ。潰しが効くって言われて、ただなんとなく大学で免許を取って、一番条件のいい仕事を選んだらこれでした。」
「ちょっとびっくり。」

でしょう?なんていいながら、先生は自分用のカップにもコーヒーを注いだ。

「いいんですか?先生がそんなこと言って。」
「生徒には言えなかったですねぇ。でも、あなたはもう大人ですから。でも、今思えば生徒にも言ってよかったのかもしれません。今の時代なら、言えるでしょうね。」
「……。」
「やりたいことなんて、なくていいんです。夢なんてあればいいけれど、なくても全然大丈夫。やりがいなんて見つかればラッキーくらいで、なくても生きていける。でも、やってるうちに手に入るものもけっこうあります。いや、ありました、かな。」
「そっか。そうかも。」
「ええ。」
「先生。」
「はい。」
「……ありがとうございました。」
「いえいえ。」

深く息を吸うと、香りが肺の奥まで入ってきた。ほんの少しだけ、息がしやすくなった気がする。
そういえば、江嵜さんはあんなに怖い顔してるのにスイーツ巡りが趣味だったな。まだ好きなのかな。よし。写真、送ってやろ。

「チーズケーキ、まだあります?」
「ええ。ありますよ。」
「あ、松田くんにツケといてくださいね。」
「いいですよ。」

先生はまた、いたずらっぽく笑った。
わたしはまた東京に戻るんだろうか。戻って仕事をして、誰かの何かを解決して、答えを見つけて。その先になにが手に入るんだろうか。役に立つってなんだろうか。

「どうぞ。」

パシャっと写真を撮って、久しぶりにチャットを開く。上下にスクロールすると、スルスルと流れていく文字。仕事。報告。引き継ぎ事項。お疲れ様です。お世話になっております。よろしくお願いいたします。最後のトーク画面で立ち止まる。ほんの数ヶ月前なのに、並んだことばはもう別世界みたい。

ぜんぶは一度に飲み込めない。けれど、ひとさじ。すーっとフォークをおろす。ひとくち。口の中でほどけていく。真っ白なチーズケーキを崩して、少しずつ口に運んでいく。酸っぱくて、甘くて。頬が熱くて、しょっぱい。
この前よりもちょっとだけ、おいしい気がした。おごりだし。

待てうかつに近づくなエッセイにされるぞ あ、ああ……あー!ありがとうございます!!