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テレビが逝った。

題名通りである。テレビが逝った。

「テレビにリモコン投げて液晶が壊れました」

休憩中にみたラインは、淡白なテキストに悲哀がにじんでいて、ちょっと笑ってしまった。

「ケガがなくてよかったね!」

ポチポチしながら、保険とかどうなっていたか考える。

家に帰ると奥様は大変落ち込んでおり、息子くんは立ち直っていた。
それでも「やばいことがおきた!」のはひしひし引きずっているようで、いつもに増してソワソワしている。
テレビには電子版ネイティオが召喚されていた。

「そろそろばあばん家に行く準備しようね」
「……うん」
「そろそろだよ」
「……。」
「じゃあテレビ消すね。アレクサ、テレビ消して」
「いやー!!」
「ドゥトゥン、テレビカラオウトウガアリマセン」

「……。」
「……。」

といった感じだったそうだ。

そのテレビは昨年初めに、お義父さんがお正月のテンションで、「孫にオリンピックを大きな画面で見せたい」と買ってくれたものだった。

テレビに対してこだわりがなかった我が家でも一度導入されると、

なんかぬりぬり動く!すごい!おおきいねー!
と喝采をうけて歓迎された。現金な一家である。

でも、結局オリンピックはやってないし。
本懐に至らず、短いテレビ(人)生だったなぁ。すまん。

そういえば、小さい頃実家では、
車とか大きめの家電を処分するとき、お清めにお酒をまいたりしてた。
子どもごころに、冷蔵庫はお酒飲まんな?とか早く新しい車乗りたいな?とか思ってたけれど、
父や母は物を大事にするのと一緒に、家族の思い出に別れを告げていたのかもしれない。

テレビ、短い間だったけど楽しかったよ。
ありがとう。

液晶テレビは、修理費が買ったときよりかかる。
保険も効かなくて、かなり手痛い出費だ。
正直しんどい。うそやん。

でも、リサイクル回収待ちで廊下においてあるテレビに「ごめんね…」してる息子くんを見て、
まあいいかって思ってしまった。

「もう投げないよ!」と意気込む三歳児。

物の大切さを知る、さいしょの一歩だったのかもしれない。

次のテレビがきたら、また家族で大事にしようね。


たぶん、あと何回かは投げると思うけど!その時は、その時。
うん。保護パネル買おう、やっぱり。

待てうかつに近づくなエッセイにされるぞ あ、ああ……あー!ありがとうございます!!