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「戦場のフーガ」キャラクターの死によってプレイヤーの体験が広がるゲーム「レビュー」

 漫画やアニメ又は映画で登場人物が死に逝くことは珍しい事ではない。それはゲームにおいても同じことが言える。ただ、ゲームだけが死に関して言うと寛大なのかもしれない。RPGジャンルのゲームであればキャラクターが敵にやられ瀕死状態になってもそこから立ち直る手段が設けられているものも多い。復活する手段あればプレイヤーも死に対して抱く感情は、漫画やアニメ又は映画とは異なるベクトルに向くだろう。この死に対する扱い方はゲーム特有の要素のひとつでもあるが、ひとつその考えを改めさせられる死と密接したゲームを紹介したい。サイバーコネクトツーより2021年7月29日に発売された「戦場のフーガ」だ。このゲームは非常にゲームらしい死を扱い方をしていながらも、死別の切ない気分にさせる。
 ゲームと物語の概要をざっと説明しよう。平和に暮らしていた主人公たちだが、ある日戦争に巻き込まれてしまい村を焼き払われ捕虜となるスレスレで何とか子供たちは逃げ出し、逃げ出した先で巨大戦車タラニスを見つけ反撃の狼煙を上げる。物語はここから始まる。

 そしてタラニスには、ソウルキャノンという兵器が搭載されておりキャラクターの命を捧げることで敵をせん滅させる攻撃を放つことができる。
私は戦場のフーガのプロモーションビデオを見たときにこのソウルキャノンというシステムに心躍らせたのである。と言うのも、私の好きなアニメ作品の「ぼくらの」に似ていたためだ。強大な力を得るも命を代償にしないといけない。そして戦わないとどのみち死んでしまうという過酷な状況だ。
 ソウルキャノンを使用するとひとりの命を失い、その命は復活することは無く次の展開へと続いていく。戦場のフーガはRPGであるため、ひとりひとりにレベルやステータスが存在するため、手塩にかけて育ててきたキャラクターがいなくなってしまうという事が起きる。キャラクターを失うというのはプレイヤーにどういう心理をもたらすのか他のゲームで考えてみよう。
 任天堂の「ファイアーエムブレム」シリーズは敵ユニットに味方がやられるとそのまま死んでしまう。思いもよらない伏兵にやられてしまうこともあるだろう。そういった場面に出くわしたら一度リセットボタンを押して、死なない対策を取ることもあるだろう。味方を1人も失いたくない、または育てていたキャラクターが失われるのは今後の戦闘が厳しくなる、など理由はあるだろうが、考えは一つでキャラクターを失いたくないという事だ。
 もうひとつ例をあげよう。スクウェアより発売された「ファイナルファンタジーⅦ」では仲間キャラクターのパーティから永久離脱のイベントがある。ファイナルファンタジーⅦの物語を進めていくと中盤で悲劇的なイベント後パーティから離脱しプレイヤーの手から離れてしまい二度と自分の手で動かすことはない。
 ゲームにおいてキャラクターの死とは、プレイヤーのモチベーションにも関わっており、お気に入りのキャラクターが死ぬことによりゲームを進める気が低下する場合もある。
 ファイナルファンタジーⅦの死は物語における死でプレイヤーが介入することのできない部分である。ファイアーエムブレムの死はゲームデザインの部分であるためプレイヤーの準備次第で回避することができる。ゲームでの死は自分がゲームプレイで積み上げていたものを失ってしまう又は自分が不利な状況になってしまうような、死によって引き起こされるネガティブな側面がある。
 では、戦場のフーガではどのようにして死が扱われているか。それは、死すらプレイヤーの選択によって決めることができるのである。どういうことかと言うと、プレイヤーのプレイスキルでは敵わない敵との戦闘でソウルキャノンを撃つという選択がある様に、プレイヤーの戦場のフーガに対する理解度を上げることによって撃たなくて良いという状態に持っていくことができる。キャラクターが好きで誰も失いたくないというプレイヤーなら、銃座にある大砲のみで戦い、難しいと思ったならばソウルキャノンを使えば良い。そのようなゲームバランスになっているのだ。
 しかし、これはあくまでもゲームバランスの話である。プレイヤーとしてのソウルキャノンの体験は別の所にある。それは自分の好きな作品への模倣や、自分の中で思い描いた物語の反映である。自分の好きなタイミングでソウルキャノンを使用することによって思い描いた場面を再現できる。つまり、有利不利の戦闘だけでなくアニメや漫画又は映画の様な死別を体験するための物語のアクセントとしてソウルキャノンを使用し、キャラクターの死を見ることが出来る。ゲームというのはプレイヤーの選択の連続で進んで行くが、戦場のフーガは死すら選択できてしまう。それがさらなるゲーム体験に結び付き楽しみの幅が広がって行く。ということは、キャラクターの死すら戦場のフーガの魅力と言えるのではないだろうか。



以下、戦場のフーガのネタバレを含むプレイ記録




好きな作品の模倣

 私は戦場のフーガを初めてプレイした時はキャラクターたちが絆を深めていく交流に惹かれてソウルキャノンを使用しないではクリアした。やはりキャラクターを1人失うのは他の11人の子供たちとの交流が見れなくなるので、誰か欠けるのはもったいないと思った。一通りプレイして交流も見て満足しかけたが、その時私は思った。タラニスの乗員のなかで一番幼いメイというキャラクターを1人だけ生き残らせてエンディングを見たいという気持ちが湧いた。
 私の好きな作品のひとつが上記にある通り鬼頭莫宏の「ぼくらの」だ。ぼくらのは15人の子供たちがひょんなことからロボットに乗ることになり地球の存続をかけた戦いに巻き込まれてしまう。そして、ロボットを操縦した者は死に逝く運命にある。アニメ版だと宇白順の妹である宇白可奈だけが生き残り、子供たちが守った地球で平和に暮らすという最終回がある。それが好きすぎるため実際に戦場のフーガをぼくらのに重ねたいと思いプレイした。
 各章ごとにソウルキャノンを使用していく全滅エンディングというのがあるが、一人だけ生存するには一章だけソウルキャノンを使わず自力でクリアするという流れとなる。ゲームをプレイしていくと意外なことに気づいた。ソウルキャノンを使うたびにキャラクターがいなくなっていくために、ストーリー中の会話に若干変化があった。一番わかりやすい部分で言うと8章の「野を渡る風」で、あるキャラクターが取って置いたお菓子が無くなるというイベントがある。この時ボロンという一番体格がよく食いしん坊のキャラクターが生きているとお菓子が無くなっているとボロンが叫ぶところから始まるが、この段階でボロンがいないと別のキャラクターがこの発言をする。

生存者に応じて変わるテキスト芸が細かい

 こまかい部分になるが、様々なプレイヤーの遊び方に対して律儀に呼応するこのゲームの対応力に驚かされる。
 物語は大詰め、最終章でメイとメイの兄であるマルトを残した状態で最後の戦いを迎えることが出来た。図らずもこの戦いでメイがケガをして戦闘不能になってしまった。これにより妄想はさらに広がる。ケガをして気を失っている妹を前にして自分の身をもってソウルキャノンに入り、妹を護る兄という画が完成した。

戦闘不能になり×印がつくメイ
物語が加速する

 そして、最後のソウルキャノンによって世界は守られ、また生き残ったメイは一緒に戦ってきた仲間たちを語り継ぎ、崩壊しかけている世界の復興に尽力するのであった…。という妄想で終わらせることができるというのが戦場のフーガの模倣である。プレイヤー自身のこれまでの体験と戦場のフーガでの体験を組み合わせて新たなる体験をすることができる。

ソウルキャノンの犠牲になった子は黒塗りにされる

 このゲームは大きく分けて3種類エンディングが用意されている。プレイヤーの遊び方次第で、全員生存、全員死亡、何人か死亡のパターンを見ることができる。今回はこの何人か死亡でのパターンを生かしたプレイ体験をした。全滅エンディングだと上の崖で整列する一枚絵はカットされてしまうため、ある意味全滅エンディングよりも切ない気持ちになった。ぼくらのを模倣として始めてみたゲームプレイだったが、崖の上に立つメイの姿を見たら胸が締め付けられ、つい目頭が熱くなってしまった。自分で物語を運んでおいてこんなことを言うのも変だが感動した。
 もし、これを読んでいるあなたが興味を持ったのであれば好きなキャラクターで一度独りエンディングを目指してみては如何だろうか。戦場のフーガのまた違った一面が見れるかもしれない。

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