一杯の珈琲で
一杯の珈琲で、人生が変わる。
と、本気で感じたくらいの、美味しい珈琲をのみました。
淹れるのこそ自分でしたが
そのおマメを、丁寧に心をこめて焼いた方がいて、
その方の魂がおマメに宿っている気がして、
(というより、もしかして、珈琲豆に本来宿る魂をその方が引き出したのかもしれない)
今までになくどきどきしながら、震えるような心持ちで淹れたのでした。
その大切なおマメを、生かすも殺すも自分次第だ、と本気で思ったのですから、もう、楽しみを通り越して、こわくなってしまって。
でも、私なりにゆっくり、ぽとぽと、おマメのようすを見ながら、おマメと心を通わすつもりで淹れたら、
それはそれは美味しい一杯ができたのでした。
ひとくち飲んだときに、あぁこれは今までとまったく違う、こんなに美味しいなんて、とうれしくて、
同時に、今まで私はいったい、珈琲のなにを知っていたのか、なにを愛しているつもりでいたのか、と。
猛省しました。
これまで、自分が美味しく淹れることだけに一生懸命になっていて、珈琲豆のことも、それを焼いてくれる人のことも、育ててくれる人のことも、それ以外のこともすべて、まったく感じることがなかったのでした。
なにかに触発されたわけではなく、ただいつもと違う方からおマメを買って、淹れた。 それだけで、こんなに感じることがあるのか、と。
きっと、感性を研ぎ澄まして焼いてくださっているのだと思う。
それが目の前のおマメ伝わってくるから、私も、できるかぎり感性を研ぎ澄ませて、淹れる。 そしてそのままの感性で、いただく。
楽しいだけではない、そこには緊張と、不安と、責任感と、その先にあるものを求める静かな力があって、
生きるというのは、そういうことを繰り返すことなのか、と思った。
本当になすべきことって、大事なことって、そういうことなんじゃないか、と思った。
楽ではなくて、深いところに行こうとすればするほど、とても辿り着けない場所があるのが分かってしまって、辛いのだけど、
分かってしまったからこそ、行くしかないというような。
辿り着こうとするのではなくて、ただその先へ行こうという意志が必要なのではないか…
痛くて痛くてたまらない真実にどっぷり浸かる。
最後の最期まであがく覚悟。
そんな「生き抜く」という貫く美学。
(「心に響くパンを焼く」http://sensetsens.jp/top2.html)
sens et sens の店主さんのブログに、サブタイトルのように書かれている文です。
この言葉の意味を、少し、自分で感じられた気がします。
目の前にあるものごとから、どれだけのことを感じられるか?
目の前にあるものさえ分からないのなら、分かろうと思えないのなら、
きっとほかの何も分からない。
分かることが到底できないことだとしても、やはり分かりたいという力や、何かを自分で捉えようとする意志は、ないといけない。
と、そんなことを真剣に考えた今日でした。
どう生きるか、という問いの考え方を教わった日でした。