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『無意味のススメ』

こんにちは。

何だか気分の移り変わりが激しいこの頃です。

過去のnoteなんか見てみると、本当に同じ人間が書いたのか? というくらい雰囲気が違っていてびっくりします。
(恥ずかしいので見ないでください。笑)

時々で思っていること、感じていることがこんなにも変わるのは、年齢のせいなのでしょうか。

学生時代の終わりがようやく見えてきて、「これから何して生きていこう」を本気で考える時期だから、なのでしょうか。

うーんでも…昔からこんな感じだった気もします。


最近、こんな本を読みました。

とても良いです。読みやすくて、買ったその日の内に読んでしまいました。たしか2時間もかからなかったです。

「〈意味〉に疲れたら、〈無意味〉で休もう」ですよ、本屋でこの文句を目にしたとき、はっとして。迷わずそのままレジに持っていきました。

あらゆるものに〈意味〉が紐づけされて、何をするにも「それ意味あるの?」「どれくらいあるの?」「ためになるの?」というような問いが降りかけられるような社会で、〈無意味〉を堂々と推奨してくれるこの本は、救いです。

いつか、phaさんの『しないことリスト』を読んだときも、似たような感覚を覚えました。あぁ助かったって。あれもこれもしなくて良いんだって。


習い事や部活を頑張っていたこと、大学に来たこと、バイトを何だかんだ続けていること、今こうしてnoteを書いていること・・・

「やれば成長できる」「やればためになる」「続けていればいつか役に立つ」

間違ってはいないですよね。 そういう〈意味〉たちを否定する本ではないのです。 ただ、「意味に殺される」前に、〈無意味〉とのバランスを取ろう、と呼びかけてくれる本です。

私はずっと、どんなことにも意味を見出さなければならない、と思ってきました。 勉強も、部活も、やるからには意味をみつけ、出来るところまで頑張る、それが自分の糧になるんだ、という意識で。

もちろん悪いことではないはずです。
それで出来たことはたくさんあるし、褒めてもらって自信もついて。

ただ、なんかもう疲れたなって、3年前くらいから感じ始めていて、その怠い感覚を忘れようとしたり薄めたりしながら過ごしてきて、そろそろ限界だな、という気がしてきて。


本の最初のほうに、こんな文が出てくるのです。

❝自ら求め、つくり、その結果として手にした意味ならば、よい。問題は、半ば強制的に押し付けられる意味である。それらはしばしば、私たちの行動から、失敗する自由を奪う。❞ 
(川崎昌平『無意味のススメ:〈意味〉に疲れたら、〈無意味〉で休もう。』春秋社,2019,26)

あぁ、失敗する自由、奪われてるなあ…と。

社会が用意している〈意味〉にずっと迎合してきながら、あたかも自分自身がそれを求めているような感覚でいて。

その積み重ねが、この疲労感と反発心なのだと思います。

「もうほんと、いろいろ、くそくらえだわ」という気持ちが最近ふつふつと湧いてくるのですが(笑)、きっとそういう周期なんですね。

今はもう、ダアー! って叫びながらいろいろ捨てながら、走ってエネルギーを発散したい。 何かにぶつけたい気持ちが大きい。

そんでもって、〈無意味〉なことをしたい。 今までなんとなく我慢していたことを心おきなくやりたい。 というかやっています。

寝る前にだらだらネトフリ巡回したり、逆に
ちょっとした待ち時間に何にもせず妄想にふけったり。

有益な時間の使い方とか、その場での過ごし方とか、もう考えたくないです。 やりたいことをやりたいところまで、その結果が〈無意味〉でも全然いいやという気持ちで。

ちょうど夏休み中ですし、〈無意味〉や無駄を謳歌していきます。


はあ、それにしても、エネルギーを発散させる場所が足りていないな。
思いっきり馬鹿なコントとかしたいな、何人かで。

おわり。