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4/9 日曜日の天使、月曜日の窓

朝から雨が続いている。これでは満開の桜はきっと散ってしまうだろうというくらい強い雨だ。昨日見た夜桜が今年最後の桜になって、今年もとうとう花見をしなかった。大きなレジャーシートを敷いて満開の桜のしたで思い思い食べて飲んでごろりと寝転がる。日本だと寝転んでいい芝生があまりにも少ないので、たとえレジャーシートの上だろうと外で寝転がれるのは大切な機会だった。何も咲いていなくても、定期的にレジャーシートの上で寝転べるような催し物をするべきだ。公共の場を公共たらしめるために、あるいはearthingのために。

earthingとは自然環境の上を裸足で歩くことをアクションとして、地球を肌で感じるための癒し的行為として行われている。裸足で歩くことを推奨されるニュージーランドやオーストラリアの子供たちは、スーパーマーケットや空港でもearthing的精神を忘れずに裸足でいることも多い。近年は気温が上昇しているため、夕方のニュースで深刻な顔をしたキャスターが「夏場はコンクリートの上がとても高温になり子供が裸足で歩くと火傷をする可能性がある」と取り上げていたのを見た時は、さすがに靴を履いてよとツッコミを入れたくなった。
浜辺を裸足で歩くこともかなりearthingだ。砂と海水が足先を心地よく濡らして、たいていの問題ごとは瑣末で気に留める必要もないような気分にしてくれる。泳げないのに裸足で歩く時だけは海に受け入れてもらっているような気になる。

日本では、レジャーシート一枚分の隔たりがあるだけで公共の場とずいぶん仲良くなれると感じる。それは単に砂埃からお尻を守るだけではなく、一時的に自分の居場所を拡張したような、間借りしているような、それでいて周りの人たちに見られても良いような感じの良い共用スペースを勝手に作り上げられるような気前の良さがある。飲みすぎて眠い人もまだ首の座らない赤ん坊でも、ごろりと寝そべっても何も問題がないような場所。

最近みたニュースで、新宿区にあるベンチが人間工学にまったく沿っていない、いわゆる「意地悪な構造をしたベンチ」であるということが話題になっていた。元々は路上で生活する人がそこで横になったり、眠らないために作ったベンチだそうだが、よくある不自然なしきりのある長椅子タイプのベンチよりもはるかに座りにくそうな構造をしていた。背もたれはないし、椅子の座る部分は不自然な隆起がしてあり大変座り心地が悪そうだ。路上生活をする人に対して対応する訳ではなく、ここにいられると具合が悪いのでどこか見えない別の場所へ追いやってしまいたいという気持ちの表れのベンチ。
公共とはなんだろうか。そこにいることが当たり前であることを指し示すこと?誰もが安心して暮らせるような支援を政策にふんだんに盛り込むこと?

暮らしは物入りだけれど、ほんの少しでも自分が望んだ暮らしを手にすることができれば。

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