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「犬映画」としての『アングスト/不安』

じつは『アングスト/不安』は「犬映画」である

『アングスト/不安』は「犬映画」だ。そのような感想をかなり目にした。しかし、なぜ「犬映画」なのだろうか?

「犬が登場する映画」ならたくさんある。カンヌには「パルム・ドール」ならぬ「パルム・ドッグ」という賞があるくらいだ。映画ですぐれた活躍をした犬が受賞する。タランティーノ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』、カウリスマキ監督の『過去のない男』、ジャームッシュ監督の『パターソン』など。たしかに犬の存在がひとかどの役割を果たしている。

それらの映画を「犬映画」とよぶ人は少ないだろう。あくまで描かれているのは人間ドラマであって、犬はあくまでそのドラマを補強するための存在だ。だからたいてい飼い犬である。

『アングスト/不安』に登場するダックスフントも被害者一家の飼い犬だった。おもしろいのは、この犬が人間的な感情とは無縁の立ちふるまいに徹しているところだ。

一軒家にしのび込んだ殺人犯K.を、おそらく臭いで感知し、住人たちにさきがけて対面をはたすものの、みじんも警戒するそぶりを見せないばかりか、K.が殺人に取りかかっているさなかも彼を阻止しようとはしない。そして凶行におよんだあとのK.をまるで新しい飼い主であるかのようにつけ回し、最後に現場を離れていく彼の車にも同乗してしまう始末なのである。

この犬の存在感はすこぶる独特であり、「犬は無事」であることを「ネタバレ」した予告編までつくられている。

犬の名前は「クバ」という。撮影編集を手がけたズビグニェフ・リプチンスキの犬で、製作陣のまわりをうろうろしていたという理由で役割を与えられたらしい。これはモデルとなった殺人犯が、侵入した家の飼い猫を殺害したことにも着想をえたそうだ。

そうなると『アングスト/不安』が「犬映画」となる事情はかなりこみ入っている。まず、犬はたまたまそこにいたから起用された。悲惨な映像とはかならずしも同期していない闊達自在な演技は、一部そのせいだろう。

そして、じっさいにはペットの猫は殺されてしまったが「犬は無事」だ。K.はモデルとなった殺人犯と同様、動物虐待に手を染めているという事実が作中で語られる。彼が犬を相手にしないのは、そういう意味でもじつは不整合である。

もしかすると、犬には死んだフリや暴力を受けているフリができない、という撮影現場の都合もあったのかもしれない。残酷をウリにした映画といえども、ほんとうに犬を殺したり痛めつけたりはできないからだ。

にもかかわらず、この犬の存在は、あるしかたで『アングスト/不安』にただならぬ精彩を加えている。これが本作が「犬映画」といえる所以だ。

だが、いったいどのようにしてだろうか?

本論の最後にもう一度、この問いに戻っていきたい。

『アングスト/不安』の不気味さ

タイトルになっている「不安(Angst)」。これも気になる点である。いったい誰の「不安」なのか?

「恐怖」なら分かりやすい。サディズムのために殺人をしようと男が家にひそんでいるのだ。殺される側の視点に立つならば、恐怖にちがいない。殺人犯K.も被害者に恐怖を味わせることが重要であるという。ちなみに、この映画の英題は「恐怖(FEAR)」であった。

だがこの映画は、はじめの出所シーンから、主人公がすでに殺人を終えたあとの、ラストに至るシーンまで、われわれ観客の気持ちをひとときも落ちつかせない。つまり「不安」にかぎっていえば、それは殺人犯K.が体験している世界にそなわっているものだ。われわれはその世界を1時間強にわたってたえず追っていくのだから。

「不安」をもたらすもの、それは殺人犯K.の内面だろうか?たしかに彼の殺人願望は、世間一般の基準からするとあきらかに異常である。しかしそこには親族からの身体的精神的な虐待といった背景があり、無辜の人間をダシにして恨みを晴らそうという意図は、共感こそできないがとりあえず了解はできる。

またK.の行動は凡庸なまでに場当たり的だ。モノローグでは、自分は完璧な計画を持っているのだ、といいながらも、自身が成し遂げようとする殺人行為には結果としてはほぼ失敗している。恐怖に陥れるつもりだった相手を、予定よりも早く殺してしまって煩悶するシーンにはちょっと滑稽みさえある。いわゆる「実録犯罪映画」の系譜に位置づけるならば、むしろ穏当な部類の心理描写だろう。

全編にわたって「不安」をもたらすのは、ここではむしろ、鬼才リプチンスキによる映像世界である。

今でいう自撮りやステディカム撮影のように、K.の動きに同期して視点が動いているのだが、その視点が移動するごとに、いつもなにかに引っかかっているような、躓いているようなぎこちなさがともなう。彼が歩く方向を変えるときには、まるで古いビデオゲームのキャラを操作するみたいに体が機械的に回る。われわれにとってはゲーム画面のようだが、K.の立場からいうと、それは彼がゲームのように操られていることの裏返しでもある。K.の身体や表情はそのような独特の緊張をつねにおびている。殺人の場面でさえ、彼はあきらかに効率的ではない肉体の動きをしている。

いっぽうで、当時は存在しなかったはずのドローン撮影を思わせる、やたらに長時間の俯瞰ショットも特徴的だ。K.は上からの目線から逃亡するかのように、あちこちを走り回って不要な往復をくりかえしており、やはりここでも非合理的な軌道を描いている。

したがって、この映画が「不安」に満ちあふれているのは、彼の内面が原因なのではなく、彼を殺人に切迫させる世界の不気味さを、われわれが映像をつうじて追体験しているからなのである。

では、いったいそれはどんな世界なのか?

「不安/アングスト」の哲学

この問いに答えるためには、本映画が「恐怖」ではなく「不安」をテーマとしていることを見逃してはならない。「不安」と「恐怖」は似て非なるものだからだ。20世紀を代表するドイツの哲学者ハイデガーは、「恐怖」と「不安」のありようを以下のように分析している。

心境としての怖れについての解釈が示したところによれば、怖れがそれに臨んで怖れるところのものは、そのつど内世界的な、特定の方面から近くで近づいてくる、有害な、しかもそれてしまうかもしれない存在者である。(『存在と時間』第三〇節)
不安がそれに臨んで不安を覚えるところのものは、世界内存在そのものなのである。不安がそれに臨んで不安になるところのものは、怖れがそれに臨んで怖れを抱くところのものと、現象的にみてどのようにことなっているであろうか。不安が臨んでいるところのものは、いかなる内世界的存在者でもない。そのさいかような存在者には、本質上いかなる趣向もなくなるのは、このためである。不安に含まれる脅威は、おびやかされた者に、なにか特定の事実的存在可能に関して襲ってくるような、特定の有害性をもっていない。(『存在と時間』第三〇節)

「恐怖(怖れ)」はさほど複雑ではない。われわれは世界のなかで有害なものに遭遇する。その有害なものにたいしてわれわれは恐怖する。ふだんの日常で経験することだ。

「不安」はよりつかみどころがない。「世界内存在」とはひらたくいえば、われわれが世界に特定のしかたで棲んでいることを意味している(松本卓也『症例でわかる精神病理学』の言い回しを部分的に引用)。世界のなかで遭遇するなにか有害なものが不安をもたらすのではない。われわれが世界に棲んでいる、そのありかた自体をおびやかすものが不安なのである。

古東哲明の著書『ハイデガー=存在神秘の哲学』では、不安とは「自己分裂構造」であるといわれる。それはハイデガーの用語を使うならば「本来的」な自己と「非本来的」な自己の分裂である。

非本来的な自己のありかたは「ダス・マン(das Man)」と呼ばれる。英語ならば「a Man」が近いだろうか。世間話に興じるなどして日常に埋没し、平均的、一般的に存在しているような、誰でもないただのひとを演じている、といったイメージである。いっぽう、本来的な自己とは、自己が自分のもともとのありさまとして生きることだ。古東はそれを「生身の役者」にたとえている。たいして「役柄上の自分」がいわゆる「ダス・マン」である。

すなわち、世間は現存在(引用者注:人間のこと)の平均的日常性のなかへ、くつろいだ安心感や当り前のような在宅感を取り入れてくるのである。これに反して、不安は現存在を「世界」のなかへ頽落的にとりこんでいるありさまから、連れもどす。(『存在と時間』第四〇節)

不安があるために、ひとは「非本来的」な状態に安住できず「本来的」な自己に連れ戻される。さしあたってそう理解してよいだろう。不安こそが本来的/非本来的な自己の分裂をあかしだてているのだ。古東はこの分裂構造ゆえに「スキゾフレニア(統合失調症)」があるのだ、ともいう。

この世に生きていること。それは二重性のなかで生きることだから、構造的に不安定だ。だからしずかに不安だ。ズレを生きるのだから、いやでもそうなる。自分ではない自分(ダス・マン)と自分自身が統合され、均衡を保っているうちはいい。だが限度がある。ズレも大きくなると、クレバスになってしまう。まさに自己分裂症におちいるわけだ。(『ハイデガー=存在神秘の哲学』P112)

「不安/アングスト」の病理学

これは興味深い事実である。フランスでは『不安/アングスト』は『SCHIZOPHRENIA(統合失調症)』と題されていた。これは映画じたいの内容とは辻褄が合わない。統合失調症ならばそれは精神病である。だがK.もモデルとなった実在の殺人犯も「精神病である」とは診断されていない。

とはいえ、この映画に描かれたK.をひとつの人格としてとらえ、なにかしら疾患を対応させるのは適切だろうか。

そもそも彼のモノローグはモデルとなった殺人犯(ヴェルナー・クニーセク)のものではない。別の殺人鬼(ペーター・キュルテン)の告白が引用されているのだ。クニーセク本人についても、警察や裁判所の記録を読んだり、じっさいに会話をしたりすることはできず、製作陣は限られた情報しか得ることができなかった。また、K.を好演したアーウィン・レダーは、父親が精神医学研究所に勤務していた経緯から、統合失調症患者と接することが多かったという。

このように、映画をつくるにあたって複数の人格像が混ぜ合わされていることがわかる。ようするに鑑別診断には不向きの映画なのだ。ここでは鑑別診断という視点をあえて捨象したうえで、いわゆる「統合失調症」の病態像と比較することが、この映画の特異性を剔抉するのだと考えたい。

本題へ戻ろう。ハイデガーに影響をうけた精神病理学者ビンスワンガーは、統合失調症の病態を「水平方向」と「垂直方向」のバランスによって説明しようとした。

前者には身近な他人とつき合うための空間が対応する。先にあげた「ダス・マン」に近い。後者には自己の死や存在について自問するような機会が対応する。これは本来的自己に近い。ひとは他人とのおしゃべりに夢中になっていることで、自己の死や存在について、たまに気にする程度でいられる。両者のバランスによって、ひとはふつうに世界で生きていくことができる。

しかし水平方向/垂直方向のバランスが崩れることがある。水平方向の痩せ細りと垂直方向の過剰化による「思い上がり」が、統合失調症の根底にあるとビンスワンガーはいう。そのありさまは「世界に自然に棲めていない」とも表現される。同じような状態を、精神病理学者のブランケンブルクは「自明性の喪失」と呼んだ。

以下の一節で言及されている「不安」のありようは、統合失調症(特に「妄想気分」)が遭遇する「自明性の喪失」を思わせる。

世界の内部で用具的にまた客体的に存在しているいかなるものも、不安がそれに臨んで不安を覚えているものではない。用具的なものと客体的なものとの、内世界的に発見された趣向全体性は、そもそも全体として重要さを失う。それらはひとりでに崩壊する。世界はまったくの無意義という性格を帯びる。不安のなかでは、物騒なものとして特別の趣向をもつような特別の趣向をもつような特定のものは、なにひとつ出会わないのである。(『存在と時間』第四〇節)

やはり『アングスト/不安』は「犬映画」である

あらためて『アングスト/不安』をふりかえろう。その映像がうつしだしているものは、今までに述べた「思い上がり」や「自明性の喪失」にどこか似かよっている。

殺人犯K.は映画をとおしてろくに会話をしない。ときに口を開くことはあるものの、まっとうなコミュニケーションは成立していない。また視点はK.のいわば自撮り像、あるいは主人公をはるか上から眺める、さながら神の目線がきわめて多い。あたかもK.とその真上にまします神の存在しか考慮にいれていないかのようである。その独特の秩序のなかで、K.は不安に駆られつねに切迫している。殺人にともなう恍惚と安心さえ、彼にはかりそめのものにすぎない。

またその映像は、共同する人々をほとんどうつさない。店や家などの複数人がいる空間でも、ぶつ切りにされた他人の視線や表情がばらばらに提示されるだけである。世界を支えているはずの、水平方向の広がりをここでは欠いており、われわれは異和感に満ちた世界を体験する。

世界の「自明性の喪失」。そうした世界がもたらす「不安」。本映画の映像と演技がすぐれて表現しているものは、殺人者の心理ばかりではなく、じつはこのようなところに核をもつのではないかと思う。

ここでふたたび最初の問いに戻ってくる。犬はこの映画にどのような精彩を加えているのか?

ハイデガーは「人間は世界形成的である(Der Mensch ist weltbildend.)」といい「動物の世界は貧困である(Das Tier ist weltarm.)」といった。人間だけが狂うことができる。本来性/非本来性に引き裂かれることができる。水平方向/垂直方向のバランスを崩すことができる。そして世界の自明性を喪失することができる。

犬はスムーズに階段を上り下りし、気ままにボールを追いかけ、他人の車にまで乗ってしまう。人間であるK.は迷走しているのだが、犬はとりあえず人間のにおいについて行っているだけだ。「世界内存在」はユクスキュルの「環世界」概念にインスパイアされているが、犬にとっての環世界は本能に依存しており「不安」とはまず無縁である。

多くの「犬が登場する映画」とはちがって、本映画では犬は人間的な感情によりそうことをしない。これは先にも述べた。犬はむしろ人間とは対照的な存在として、人間に特有の「不安」をいっそう際立たせて画定するのだ。犬の動きのなめらかさが、K.のぎこちなさをより強調している。そこでは、不安を根本気分としてもつ人間存在のありようが、はからずも明らかにされている。

「犬がかわいかったので安心した」と観客はいう。ほんとうは、犬がかわいいから安心して見られるのではない。犬の動きが映像のもたらす不気味さを、際立たせつつも緩衝しているからこそ、われわれは安心して犬のかわいさに着目できる。

犬がこの映画に出演したことには、制作のさいの都合も大きく影響したことは想像にかたくない。なかば偶然にも本作が「犬映画」になったところに、『アングスト/不安』の比類ない奇跡がある。

そういった意味でも、やはり『不安/アングスト』はーー人間らしさのネガとしてのーー「犬映画」なのである。

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